033.唇だけが裏切る
―――大嫌い、なんて。
言うつもりはなかったのに。
売り言葉に買い言葉とでも言うのか…喧嘩が拗れて白熱して。
頭に血が上ったと思ったら、唇がそう動いていた。
最後まで言い切ってしまってから、翼の目を見て、ハッと我に返る。
目を見なければ気付かなかったかもしれないけれど…でも、見てしまったから。
一瞬だけ…傷ついて悲しげに細められた翼の目。
一気に込み上げた罪悪感。
けれど、昂った感情が即座に撤回する事を拒む。
これ以上何も言ってしまわないようにと唇を噛み締め、向けられる視線から逃げるみたいに部屋を飛び出した。
「で、俺の所に来たってわけか」
偶々こっちに来ていた兄さんのマンションに駆け込む。
来ている事は知っていたから、迷いはなかった。
「喧嘩の原因は?」
「…なんか、わかんない…かも」
「…はぁ…お前らってそれ、多いよな」
兄さんの溜め息も無理はないと思う。
私たちの喧嘩は、いつの間にか始まってしまうけれど、原因を突き詰めていくと何てことない事だったり…今回のようにたまに、原因が分からない事もある。
「ま、長く付き合えば意見の相違はあって当然だからな。寧ろ、喧嘩はした方がいいんだぞ」
「…そう?」
「本音でぶつかり合えない相手と続けていくのは無理だろ」
そう言うもんだ、と笑った兄さんが、ほら、と玄関を指差す。
「迎えが来てんぞ」
「…迎えって…翼が?」
「さっきメールが来たからな。“待ってるから落ち着いたら降りてくるように伝えてくれ”だとさ。お前が落ち着くまで何時間でも待つつもりだったんだろうな、アイツは」
さっきから携帯を弄っていたけれど、仕事か何かの話なんだと思っていた。
まさか、ついさっき出てきたばかりの翼が迎えに来てくれてるなんて、思わなかったから。
それを聞いた瞬間に、さっきまでの罪悪感や躊躇いがどこかへ吹き飛んでしまった。
代わりに、会いたいと言う感情だけが私を突き動かす。
「兄さん、ありがとう」
「おー。仲良くしろよ」
ひらひらと手を振って玄関まで見送る事すらしない兄さん。
ありがとう、と呟いて部屋を後にして、丁度止まっていたエレベーターに乗り込む。
エントランスまでのわずかな時間すら、とても長く感じた。
ポン、と軽い音がして独特の浮遊感が終わる。
足早にエントランスを抜けた先に、彼はいた。
「翼…!」
体当たりのように抱き付いても、翼は難なく受け止めてしまう。
昔は同じだった身長もいつの間にか差が出来ていて、体格だって男女のそれに変わった。
変わらないのは、私たちの関係だけ。
「…実家に帰るのはもう終わり?」
「ん。ごめんなさい」
「俺も、ごめん」
「…嫌いだなんて思ってない。昔も今も…大好きだから」
「知ってるよ」
ふわりと笑う翼の頬に触れて、お礼の代わりにキスを送る。
普段ならきっと恥ずかしくて出来ないけれど、今回は私が悪かったと思うから…そのお詫びに。
そんな私の考えなんてわかり切っている翼は小さく笑って、私用のヘルメットを手渡してくれた。
「海でも見に行く?」
「行きたい!」
「良い返事。しっかり掴まってなよ」
ひらりとバイクに跨った彼の後ろから、ギュッと腰に手を回す。
行くよ、の言葉の代わりにポンポンとその手を撫でられた。
そして、バイクは静かにアスファルトを滑り出す。
椎名 翼 / 夢追いのガーネット