085.どうか君から突き放して、僕にはできそうもないから
もしもの話だけど。
そんな前置きをしてから、一度息を吐き出す蔵馬。
その溜め息が、何故か緊張にも似た力を含めたものだと気付き、心中で疑問符を抱く。
「もしもの時は、君から突き放してくれないか?」
「………は?」
彼にしては珍しく、的を射ない言葉だと思った。
訳が分からない、と首を傾げる私に、彼は続ける。
「たとえ気付いたとしても俺から言い出すなんて…俺にはとてもできそうにないから。そうなった時は、君の方から言ってほしい」
続けられた言葉も、私の疑問を解消する内容ではない。
私から視線を逃がし、どこか遠くを見つめるような彼の目が、不快だった。
「意味が分からないわ」
「…敏い君ならわかってくれるかと思ったけど…直接的な言葉がなければわからない、か」
そう言って、自嘲気味に苦笑する彼。
一体、何がどうなっていると言うのか。
思わず眉を寄せたところで、彼は漸く私の疑問に答えてくれた。
「もし、他に気になる男が出来たら…君の方から、言ってほしいって事」
「――――」
頭にカラスが飛んだ気がする。
そんな私の心中に気付かず、彼は余所を向いたまま愁いを帯びた溜め息を吐き出す。
ちょっと待ってほしい。
「何がどうなって、そんな話になるの?」
「本を読んでいて…そう思っただけだ」
どんな影響力のある本だ。
その場の空気を壊してしまうだろうから声には出さなかったけれど、思わずそんな事を考える。
「…じゃあ、私も言っておくわね。もし気になる人が出来たら、一番に教えて?たぶん、我慢できないと思うけれど」
そう、笑顔で告げた。
何を我慢できないのか、蔵馬ならば理解できるだろう。
私の言葉を聞いた彼が、ハッとした表情で私を見る。
やっと目があった―――それだけで、心があたたかい。
「…あなたは、私が他の男の所に行ってもいいの?」
「………良いはずがない。でも、それが君の幸せに繋がるなら…」
「……………昔の妖狐のあなたは、無駄なほど自信に満ちていたのに…人間って、面倒な生き物よね」
余所見をする暇なんて与えない。
いつも自信に満ちていて、それでいて彼の全てで愛してくれていて。
他の男に目を向ける暇なんて、本当になかった。
「もう一度その男から奪う―――くらいの事は言ってほしいわね」
簡単でしょう?と問う。
言葉を失っていた蔵馬が、苦笑した。
先ほどの自嘲めいたそれではなく、彼らしい笑み。
「…黙って身を引くなんて…俺らしくない、か」
「当然。それに、私の幸せはあなたの隣にあるの。どこか違う男の所にいったって、それは得られないわ。心移り自体、するはずがないけど」
「…そう、だったな」
「あなたって時々不思議なほどにシリアスになるわね。疲れてる?」
「…人間には色々とあるんだよ」
「…まぁ、そう言う事にしておいてあげるわ」
いつもの調子が戻ってきた会話に、ふふ、と笑いを零す。
そして、彼の正面からその隣へと席を移動し、その肩へと凭れかかった。
「大丈夫よ。今も昔も、私の心を捕えるのはひとりだけだから」
この胸の内に存在する想いが全て伝わればいい。
そんな思いを込めて。
南野 秀一 / 悠久に馳せる想い