087.泡沫
人魚姫の物語を初めて読んだ時、私はこんな風には生きられないなと思った。
王子を殺せなくて、でも苦しくて…泡になって消える道を選んだ人魚姫。
泡沫に消えた彼女は何を思っていたんだろう―――物語なのに、そんなことを考えた。
―――食らえ。
本能が、そう囁く。
本当ならば絶対に抱くことのない人として斜めに傾いた食欲が、私の中を蝕んだ。
―――愛するなら、食らえ。
心の虚空を埋めるために、抱いてはいけない欲望がざわめく。
嫌だ、と身体を小さくした。
本能に従えば楽になる。
何も考えず、ただ身体が動くままに欲すれば、この苦しみから解放される。
そうと理解しているけれど、それでも。
「出来ないよ…っ!」
苦しくて涙が零れて―――そして、人魚姫の話を思い出した。
こんな風に生きられないと思っていた。
自分の身体や心よりも優先したい人が出来るなんて、思っていなかった。
けれど…もう、知ってしまっている。
自分の命よりも、愛しいと思う心。
その人のことを考えるだけで強くなれる。
その人のことを思うだけで優しくなれる。
そんな自分を知ってしまったから…私には、この理性を棄てるなんて、出来ない。
出来るのは、ただ身体を小さくし、やがて訪れる限界を待つことだけ。
いっそ、泡になってしまえた人魚姫が羨ましかった。
私の限界は、自らの本能に膝を折ると言う事だから。
「助けて…一護…っ」
まるでその声が届いたかのように一陣の風と共にやってきたその人は、一番会いたくて、一番会いたくない人。
【 087.泡沫 】 黒崎 一護