096.白い手首に口付けを
「その手首はどうしたの?」
そう尋ねるまで、自分では気付いていなかったらしい。
彼女の白い手首に残る、何かがこすれたような赤い痕。
僕の問いかけに漸く気付いた彼女は、不思議そうに首を傾げた。
「…何かしら。覚えがないのだけれど…」
そう呟く彼女に一声をかけてから、そっとその手を取る。
触れた彼女の手首は細く、強く掴めば折れてしまいそうだと感じた。
けれど、彼女はそんな風にか弱い女性ではないと知っている。
時には屈強な戦士を前に、まっすぐ背筋を伸ばしている姿を知っているから。
基本的には温和な彼女だけれど、ちゃんと覚悟も持っている。
だからこそ、彼女には安心してすべてを預けられるのだ。
手首のそれにすっと指を滑らせる。
すると、僕の指先まで赤く染まった。
それを見て、彼女が、あ、と何かに気付く。
「そう言えば、先ほど枝が掠ったわ。僅かだけれど、傷になっていたのね」
「血が出てるのに気付かなかったの?」
「痛みはなかったから」
そう言って苦笑する彼女には、もう少し自分を気にかけてほしいと思う。
体調面に関しては酷く敏感な彼女だが、最近は小さな怪我に関しては無頓着になってきている気がする。
自分の限界や危険な部分を知っているから、これは大丈夫と言う判断が出来てしまう所為だ。
「この程度ならすぐに治るわ。大丈夫よ」
ほら、やっぱり。
彼女は穏やかに微笑んでそう言うけれど、薄く赤を残す手首は僕の目には痛々しい。
痛みはないと言っても、この肌理細やかな肌に傷がついていることに変わりはない。
けれど、僕は自分の心中をどう伝えれば良いのかわからなくて―――そっと、彼女の手首に口付けを落とした。
「!」
驚いたように目を見開いた彼女の頬が、朱色に染まる。
「駄目だよ。傷が残るかもしれないし、化膿することだってある。どんな傷でもちゃんと手当しないと」
声の調子を、まるで幼子に言い聞かせるように変えてみれば、彼女は漸く僕の考えに気付いてくれたようだ。
困ったように微笑んだ彼女の頬は相変わらず赤いけれど、ごめんなさい、と言う表情は本物。
「…そうね。気をつけるわ」
「うん。努力してよ、お願いだから」
小さな傷程度に彼女を奪われるなんて、冗談じゃない。
紋章がどくんと脈打ったのは、気のせいではないのかもしれない。
―――お前も、僕と同じなんだな。
そんなことを考えながら、彼女の手を取ってその掌に口付ける。
その口付けの意味を知っていたのか、そうではないのか。
彼女はやはり微笑んで、そして小さく頷いた。
掌への口付けは、懇願。
【 白い手首に口付けを 】 1主 / 水面にたゆたう波紋