087.虫の声が、遠くで

いつもの肌寒さが随分と和らいでいる。
どことなく春の気配を感じることのできる温度に、そっと羽織を一枚脱いだ。
ひんやりとした新鮮な空気が肺を満たす。
どこかで、虫の声が聞こえた気がした。

「どうした?」

くすくすと笑う彼女に、隣で月見酒を楽しんでいた政宗が杯を片手に問いかける。
すると、彼女は笑顔のままに答えた。

「どこかで虫が勘違いしているようですね。春にはまだ少し早いと言うのに」

彼女の答えを聞いて、政宗も少し耳を澄ましてみる。
確かに、聞こえてくる虫の声。
まだ遠いそれは、庭のどこかでその存在を知らせるように鳴いていた。

「そうだな」
「四国の方では桜が蕾をつけたと言っていました。今年は随分と暖かいですから、自然が早とちりをしてしまっているようですね」
「あぁ。そうか…もうすぐ桜の季節だったな」
「はい」
「桜は好きか?」
「ええ。満開よりは少し綻んでいる程度が好きです」
「南の庭に桜の木が植えてある。毎年立派な花をつけてるから、今年も楽しめると思うぞ」

くいと杯を傾けながらそう言う彼。
楽しみです、と笑った彼女がその杯に新たな酒を注ぐ。

「鍛錬場横の桜も立派ですよね」
「あっちは花見の宴会に使える位置に植えた桜だ。南の桜は…俺がゆっくりと楽しみたい時にと植えさせた」
「そんな桜をご一緒させていただいてもよろしいのですか?」
「今更だろ?」

得意げに笑う彼に、そうですね、と頷く。
彼に遠慮など必要ないのだが、ついそう反応してしまうのは彼女の性だ。

「楽しみにしています」
「あぁ。時期が来たら教えてやるよ」

虫の声を遠くに聞きながら、やがて来る春の計画を立てる。
そうして、夜はゆっくりと更けて行った。

【 虫の声が、遠くで 】  伊達 政宗 / 廻れ、

Menu(お題順) Menu(ジャンル別)

10.02.22