021.恋しいひと

言葉に出した事はないけれど、誰に知られるよりも早く、自分自身が理解していた。
もしかすると、初めから予想していたのかもしれない。
“あんな男に”と言ったかつての同胞が居た。
それを否定しなかったのは、私自身も彼が危険を冒していると理解していたからだろう。

「晋助」

船の先端に立ち、待ちを見下ろす彼はまるで夜の中に立っているようだ。
風が彼の着物の裾を揺らすのを眺めながら、彼の名を呼ぶ。
答える声は無いけれど、声が彼に届いていると言う確信はある。

「…本当に…するの?」

すると言う言葉の裏には様々な思いが隠れている。
恐らく、彼はその全てを理解しているだろう。

「嫌なら強制はしねェよ」

煙管から吐き出された紫煙が風に溶け込む。
ふわり、と残り香だけが彼女の鼻先を掠めた。

「嫌じゃない。でも、正直…迷ってる」

かつて、共に戦った彼らに背中を向けてまで、しなければならないこと?
仲間を斬らなければならないほどに、関係は悪化してしまっていた?

彼女の中に生み出された疑問は、晋助に対する絶対的な信頼すらもじわりじわりと脅かしていた。
彼女の戸惑いを手に取るように感じていながら、彼は何も言わない。
数分が過ぎ、彼女は小さく息を吐き出した。
そして、立ち去ろうと彼に背を向ける。

「―――」

風の合間に聞こえたのは、彼女の名。
振り向いた彼女の視界に移るのは、やはり夜に立つ背中だけ。

「付いて来い」

迷うな、とも、戸惑うな、とも言わない。
けれど、ただ一言だけ―――付いて来いと、彼はそう言った。
それだけで納得してしまう自分自身は、なんてお手軽なんだろうと思う。
苦笑を浮かべた彼女は、その背中に問いかける。

「晋助には…私が必要?」
「必要なくなれば遠慮なく斬ってやる―――約束だからな」

きっと、自分が彼に向ける感情と、彼が自分に向ける感情は違う。
恋と呼ぶには狂気染みた関係は、自分たちには最も相応しいものだったのかもしれない。
この思いを口にする事は無くても、彼が必要とする数少ないものの中に自分が含まれているのならば。

「明日の交渉、上手くいくといいわね」
「上手くいかせるさ」

迷いの無い言葉に、うん、と小さく頷いた。
そして、甲板の上を歩いて彼との距離を詰める。
手が届くところまで来ても振り向かない彼の背中に向けて、そっと手を伸ばした。
着物の布地を指先だけで掴み、その背中に額を触れさせる。
それ以上は無いけれど、それで十分だった。

【 恋しいひと 】  高杉 晋助 / 朱の舞姫

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09.08.29