008.素直になれないけれど
毎日、部屋を出ていく背中を見送る。
読んでいた本を置いて時計を見ると、そろそろ日付が変わる頃だった。
ふと何かを感じて部屋を後にする彼女。
一階に下りると、素晴らしいタイミングで玄関のドアが開かれた。
無言で入ってきたクロスは、階段の半ばに居る彼女に気付き、顔を上げる。
「まだ起きてたのか?」
「ええ。お帰りなさい」
「あぁ」
乱暴な仕草で脱ぎ捨てられたコートを拾うと、ふわりと花の香が鼻先を掠めた。
それが何を示すのかを理解した彼女が、コートを持ち上げた姿勢のまま動きを止める。
クロスに似合わない花の香。
その匂いは、女性の香水の物だ。
つまり―――女性からの、移り香。
それを理解すると同時に、眩暈にも似た感覚が押し寄せてくる。
胸のあたりがジクジクと鈍い痛みを放ち、頭の中を掻き回されるような、そんな感覚。
今すぐにこのコートを投げ捨てたくなるような衝動。
そんな失礼なことはできないと、生地が傷みそうなほどに握りしめることで、それを防ぐ。
「…どうした?」
「な、にも…」
そう、何もない。
思い込むことで、自分を保とうと努力した。
けれど、存在を主張するように香水がコートを中心に彼女を取り巻いていく。
酷く、不愉快だった。
グイッと腕を引かれ、驚いたように顔を上げる。
見上げた先に見えたのは、無表情に見えるクロス。
いや、無表情ではなく―――どこか、怒っているような気がする。
「し、しょう?」
何か怒らせるような事をしただろうか。
先程の不快な感覚も忘れ、全神経が彼へと向かう。
「お前の悪い癖だな。少しは素直になったらどうだ」
「え?」
「不愉快なんだろう?この匂いが」
そう言った彼が、彼女の腕からコートを引き剥がす。
そのままコートを床に投げ捨てると、彼は何事もなかったように彼女の腕を離した。
そして、椅子に腰かけて煙草に火をつける。
何事もなかったようだけれど、彼は彼女の言葉を待っている。
そう感じた彼女は、先程の言葉を思い出した。
―――少しは素直になったらどうだ。
―――不愉快なんだろう?
そう、だ。
自分には、あの匂いが不愉快だったのだ。
でも、何故?
そう考えたところで、彼女は答えを見つけた。
「師匠…」
そっと声をかけると、伏せられていた彼の視線が彼女を射抜く。
「師匠は、その…先程、まで…」
何度か詰まらせながらもそこまで頑張ったのだが、続きが出てこない。
しかし、彼からの手助けはなかった。
無言で先を促す彼の目に耐え切れなくなった彼女は、視線を逃がす。
「…先程まで、女性と会っていたんですか?」
やや乱暴に質問を吐き出し、暫しの沈黙。
ふぅ、と吐き出された紫煙が彼女の視界の端を泳いだ。
「…まぁ、ギリギリ合格ラインだな」
そう呟くと、彼は銜えていた煙草を机の上の灰皿に押し付ける。
「最近はアクマも身の隠し方を巧妙にしてやがる。姿どころか、匂いまで似せようと頑張ってるみたいだな」
「…アクマ?…って、本当に…?」
そこまでアクマも進化してきているのか。
純粋に驚きを隠せない彼女に、クロスは満足げに笑みを浮かべた。
驚きのままに視線を戻していた彼女はその笑みを目の当たりにする。
「不安は解決したか?」
自分の抱いた感情が、姿の見えない女性に対する嫉妬であると、否応無しに理解した。
楽しげな視線に居た堪れなくなった彼女が、再び彼から視線を逃がす。
身体ごと背を向けて階段に逃げようとした彼女だが、意外にもあっさりと捕獲された。
その後数十分、彼女は恥ずかしいやら何やらと言葉にし難い感情と共に、クロスの隣に繋がれ続けた。
【 素直になれないけれど 】 クロス・マリアン / 羅針盤