095.透明な

すごい、と言う言葉が消える。
テレビの中で見ただけだった光景が今、目の前にある。
照り付ける太陽は、まだ5月だと言うのに本州で言う夏のそれを感じさせた。
思わず額に手をかざした彼女の視界に影が落ちる。

「忘れ物」
「あ。ありがとう」

後ろから帽子をかぶせてくれたらしい翼に礼を述べる。
どういたしまして、と答えてから、彼も彼女が感動した風景へと目を向けた。
見渡す限りの海はとても澄んだ透明度を持っていて、サンゴ礁が当たり前のように確認できる。

「好きじゃない飛行機に乗った甲斐があった?」
「うん!」

本州ではまず見ることのできない海を前に、彼女は満足げに頷いた。

「あー、早く泳ぎたい」

波打ち際まで走った彼女が、冷たい水に触れながらそう呟く。
彼女の後ろからゆっくりと歩いていた翼にもその声が聞こえ、思わず笑い声を上げた。

「明日ゆっくり時間取ってあるでしょ」
「わかってるって」
「それに、日焼け止めを塗ってないと帰ってからが地獄だよ」
「あ、そっか」

今日は泳ぐ予定ではないから、日焼け止めは全身に塗ってあるわけではない。
翼に指摘されてそれを思い出した彼女は、漸く納得した様子だ。
それでもまだ好奇心を抑えきれないのか、名残惜しそうに海水を掬う。
手の平から透明の水が逃げていく。

「…もう少しここに居ていい?」
「散歩の時間がなくなっていいならね」
「ありがとう」

にこりと微笑んで、濡れない位置で砂地に腰を下ろした彼女。
その隣に並ぶようにして、翼も白い砂の上に座った。

「…初めは、意地悪かと思ったのよ」
「はぁ?」
「今回の卒業旅行。だって…いきなり飛行機で沖縄まで旅行に行こうなんて」

その時のことを思い出したのか、彼女はくすくすと笑いながらそう告げる。

「来月の練習をさせるつもりなのかと思ったの」
「…その為に何万も旅費を出すわけないだろ」
「うん。そうよね…ごめん」

謝っているのに、彼女の表情にはやはり笑顔が浮かんでいる。
ふざけているわけではない。
翼が気にしていないと言う事を知っているからだ。

「来月からは海外生活か…。何時間も飛行機…」
「そこは仕方ないよ。実際遠いんだから。何なら、やめる?」
「そんな軽い気持ちで決めたわけじゃないわよ。一緒に来いって言ったの、翼じゃない」
「まぁね」

彼女の左隣に座る翼が、自由になっていた彼女の手を取る。
指を絡めるように手を握れば、薬指にはめられた指輪の感触が彼の手にも伝わった。
手を握るなど、交際していればごく普通の行為なのかもしれない。
しかし、二人はあまりそう言った身体的なスキンシップに重点を置かない付き合いをしてきた。
始まりが中学生だったと言う事も手伝っていただろうけれど、とにかく、そう言った“普通”があまりにも新鮮で、そしてどこかくすぐったいのだ。

照れたように微笑んだ彼女は、スッと視線を逸らして海を見つめる。
徐々に赤く染まり始めた太陽は、やがて海へと沈むのだろう。

「ねぇ、翼」
「日が暮れるまでここにいる?」

まるで、彼女が何を言うか知っていたように、彼はそう問いかける。
うん、と頷けば、答えの代わりに手を握る力が少しだけ強まった。

やがて、全てを受け入れる透明度の高い海が夕日に染まり始め、二人の影が砂浜へと伸びる。
飛行機で数時間と言う距離は、まるで異国の地を踏んだような錯覚すら感じさせた。

「翼」

ふと名前を呼んだ彼女に答えるように右を向くと、ふわりと優しく唇に触れる熱。

「…珍しいね。どうしたの?」
「知ってる人がいないから、かな」

その開放感が彼女の背中を押したのだろう。
ほんの少しだけ積極性を見せた彼女に、翼は楽しげに口角を持ち上げた。

「何ならもっと積極的になってくれてもいいけど?」
「…気が向いたらね」

【 透明な 】  椎名 翼 / 夢追いのガーネット

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09.01.20