085.守るべき
―――にぃに。
声なき声が聞こえる。
自室で本を読んでいた彼は、ふと顔を上げた。
室内には彼以外の者はいない。
けれど、声が聞こえる。
「何かあったのかな」
本に栞を挟んで机の上に置き、迷いなく部屋を出て行く。
気配は一階のリビングから。
母さんはどうしたんだろう、と思いながら、足を運ぶ。
「朱音、どうした?」
ベビーベッドに寝かされている赤ん坊は、まだ言葉を話すことが出来ない。
しかし、念信という便利な能力により、コミュニケーションは可能だ。
念信だけではそれに頼りきりになってしまうから、とこちらからは言葉を使ってあげてほしいと母から言われている。
―――にぃに。
「うん。どうした?おなかすいた?」
―――んーん。
念信を使ってコミュニケーションを取ることが出来るとはいえ、知能が発達しているわけではない。
少しずつ覚え始めているとはいえ、まだまだ簡単な感情しか表現できない。
首を振る代わりにそれを否定する声が頭に聞こえた。
じゃあ、何なんだろう。
妹の様子を見つめながら、彼はベビーベッドの近くに椅子を引っ張ってきた。
そこに腰を下ろし、円らな目で見上げてくる朱音を見る。
―――にぃに。
「うん、お前は朱音だよ。あ、か、ね」
小さな手が伸びてくるのを見て、その手が届く位置に自身のそれを差し出してやる。
しっとりとしていて柔らかい指が、彼の指を握りこんだ。
ふと表情を緩めながら、自分を呼ぶ彼女の名前を紡ぐ。
早く覚えられるようにと、ゆっくり大きく口を動かし、言葉を教えた。
あー?という感じに口を開くものの、そこから言葉が飛び出す事はない。
母から、もう少し時間がかかるのよ、と教えてもらっていたから、落胆はなかった。
「言葉、早く喋れるようになるといいな」
―――いいなー?
「うん」
伸ばした手でその頬をくすぐってやれば、きゃっきゃと言う嬉しそうな声を上げる。
言葉はなくとも、感情を表現する方法などいくらでもあるのだ。
それでも、言葉を発する事は、すなわち彼女が成長していると言うこと。
その時が楽しみだと思う事は、決して悪いことではないのだ。
どのくらいそうしていたのだろうか。
部屋の中にこれと言った音はない。
ただ、彼の優れた聴覚には、規則的な呼吸音が聞こえている。
ベッドの中で眠る赤ん坊を見下ろす彼。
「小さい、よな」
この命を奪うなど、きっと指先ひとつで出来てしまう。
それほどに小さく、そして儚い命。
血の繋がりがある所為なのだろうか。
一目見たときから、守らなければならないと言う、義務感にも似た感情が彼の中に存在していた。
にぃに、と言うあどけない呼び方が、おにいちゃん、に変わる。
そして、それを己の耳で聞いた時―――彼は、何を思うのだろうか。
【 守るべき 妹 】 ジュニア / 悠久に馳せる想い