080.最後の
朽木家の敷居を跨いだ、あの日。
彼から必要なしとされるその時まで、持てる全てを彼の為に尽くすことを誓った。
彼自身はそんなことを望んでいなかったのかもしれない。
けれど、そうすることが、自分が彼の傍にいることを許される理由になると思っていた。
彼が望むのならば、どんな偽りの自分でも演じてみせよう。
彼が望むのならば、どんな偽りの言葉でも紡いでみせよう。
ただ、一つの言葉を除いて。
緋真を喪った彼は、家の者が進言するままに後妻として彼女を娶った。
そこに愛情がないことも、ましてや代わりにすらなれぬことも、わかっていたのだ。
流魂街出身である緋真を娶ったその時に、彼は多くの反対を押し切った。
だからこそ、次の自分は、周囲が文句の一つも言えないほどの妻でなければならないと思った。
だからこそ、封じた言葉。
どれほどに偽ろうとも、これだけは決して外には出さない。
自分の一番奥、深いところにそっと沈めておこうと―――実家の自室で過ごす最後の日、月明かりの下で誓った。
きっと、理想の妻であろうとすればするほど、追い込まれるであろう自分自身。
虚偽と誤魔化しにまみれた世界で、彼女はただ理想を演じ続ける。
心の奥に儚すぎる言葉を飲み込んで、ただただ静かに微笑み続けるだろう。
尸魂界を出る時、そのひと時だけでも柵から解放されるような気がした。
彼の傍にいるためだとしても、それを苦痛だと感じることがないとは言えない。
けれど、傍にいたかった。
何年、何十年と温め続けた想いは、そう簡単には消えてくれないのだ。
苦しかった、けれど、幸せだった。
「白哉、様―――私は…」
続きの言葉は、ない。
唇だけが無音の言葉を紡ぐ。
この一言を紡いでしまうと、儚い夢が壊れてしまうような気がした。
彼はその言葉を望んでいない。
だからこそ、それを伝えてはならないのだ。
きゅっと唇を結び、目を伏せる。
それは、彼女が彼女として存在する為の、最後の砦だった。
【 最後の 砦 】 朽木 白哉 / 睡蓮