056.貴重な
パチ、パチ、パチ。
少し感覚の長い拍手が部屋の中での唯一の音。
音源である彼女は、目の前の光景に眉一つ動かさなかった―――はずもなく、震える身体を必死に抑えこんでいる。
耐えていなければ、盛大な笑い声を発していたであろう事は、その表情から明らかだ。
「いやー…貴重な体験をありがとう。まさか…まさか、今時こんな事をする奴がいるとは思わなかった」
そう言って、彼女は事の原因であるモノを摘み上げる。
黄色くて、手の平よりは長い。
中身は白に近い色をしていて、人類の祖先である彼らの好物―――とされている果物といえば、もう何のことだかお分かりいただけるだろう。
彼女が摘んでいるのは、そんな果物の皮だ。
「うん。バナナの皮で滑るなんて、マリ●カートの世界くらいだと思ってた」
「…必死に笑い堪えて震えとる前に、ちょっと手を貸そうとかは思わんのか、自分…」
先にそっちを拾うんかい。
フルフルと肩を震わせる成樹は、恐らく自分の失態に穴があったら入りたい…寧ろ、自分で穴を掘ってもいいくらいの羞恥心を感じているのだろう。
尻餅をついた状態のまま立ち上がろうとしない彼に、彼女は事も無げにこう告げた。
「だってさ。これを回収せずに立ち上がって、またそれで転ぶ…何て事になったら、流石の私も笑いが堪えられないと思って」
「そんな漫画みたいな展開があるわけないっちゅーねん!」
「バナナの皮で滑って転ぶようなベタな行動を取った人のセリフじゃないなぁ」
「~~~~っ。偶々や!偶々色んな要素が重なって…!」
「うん。それが重なるのが偶然で、成樹がそれを招いたって事は必然っぽいなぁ、ある意味」
最早楽しさを隠そうともしない。
ニヤニヤと口角を緩める彼女に、成樹は今の自分が何を言っても無駄だと理解した。
自分でも驚くくらいに、まるで漫画のような見事な滑りっぷりだったのだ。
彼女の反応も無理はない―――そう、自身に言い聞かせた。
「…それにしても。自分の落とした皮で滑るとは。コントでも使わないネタだね」
「もうええっちゅーねん。自分が一番ようわかっとるわ」
「そりゃ失敬。ほら、さっさと立てば?」
そう言って、その時になって漸く彼に手を差し出す。
その手が摘んでいたバナナの皮は、既にゴミ箱に葬られている。
成樹は渋々ながらもその手を借りて立ち上がった―――はずだった。
「~~、~~っ!!!」
「…成樹さん?」
立ち上がったのは良かったのだが、そこからヨロヨロ、とおぼつかない足取を見せた彼は、そのままソファーへと崩れ落ちた。
その様子を見た彼女も、流石にその異変に気付いたようだ。
「どうした?」
「腰…」
「…打った?」
短く問いかけると、数秒の間を置いてコクリ、と頷く彼。
バナナの皮、侮りがたし。
「…明日は朝一で病院かな…」
「…俺、動けやんかも」
「………竜也が実家に戻ってるって聞いたから…呼ぶ?」
「馬鹿にされんのわかってて呼べるか!!」
「だよなぁ…。ま、とりあえず明日まで様子を見ましょうか。部屋まで行ける?」
「…行ける」
「そ。じゃあ、肩を貸すよ。その後は大人しく寝てなさいな。湿布はあとから持っていくし」
そうして、彼女の肩を借りた成樹は、数分かけて自室のベッドへと辿り着いたのだった。
「あ、監督。おはようございます。…はい。えっとですね。藤村が腰を痛めましたので…はい。そう言うことでお願いします。はい。…わかりました、失礼します」
ぴ、と通話を切ると、ベッドの上の成樹を振り向く。
「休みにしてもらったよ」
「…おおきに」
「で、監督からの伝言。“若さに頼って励むからだぞ。程度は弁えろよ。ま、これに懲りて暫くは大人しく養生することだな”だってさ」
「………信用がた落ちやん…」
「…だな。バナナの皮で転びましたって言った方がよかった?」
「…もう何でもええわ」
【 貴重な 体験 】 藤村 成樹 / Soccer Life