028.届くことのない
月の綺麗な夜だった。
音のない世界は、まるで世界が自分ひとりなのではと錯覚させられる。
広い邸内はシンと静まり返っていて、人の気配すらない。
は、と吐き出した息が白く濁った。
「紅」
「はい」
突然聞こえた声に、紅は軽く肩を震わせた。
声の主である白哉の気配が感じられないのはいつものことだ。
「どうかしましたか?」
いつもならば、この時間は品の良い着流しでその身を包んでいる。
けれど、振り向いた先に居た彼は、今すぐにでも任へと就けるような、死覇装と隊長羽織だ。
全く隙のない姿の彼に首を傾げる。
「少し外に出てくる」
「あ、はい。わかりました。…お気をつけて」
彼の答えに、恒例と言うほどではないけれども偶に向かう夜の散歩が理由なのだと気付く。
常であれば、紅の答えを聞いた彼はすぐに踵を返す。
しかし、彼は彼女の予想を裏切り、その場に佇み続けた。
「……………」
「……………?」
何だろう、この不思議な緊張感は。
無言の彼につられるようにして、紅も沈黙を保つ。
だが、そうしていてもやはり彼がその場を動くことはなくて。
「……あの…あまり遅くなると、お身体に良くありませんけれど…」
そう、控えめに声をかける。
紅とは違う所を見つめていた彼が、漸く視線を戻した。
「…来るか?」
静かな声が紡ぎだした言葉は、意味を理解させるにはあまりに短すぎる。
紅は即座に返事をせず、その言葉を脳内で復唱した。
「…散歩の話、ですか?」
数秒を置いてそう問い返す彼女に、白哉は一度頷く。
そこで、漸く先ほどの言葉が誘いであったことを理解できた。
「えっと…は―――。………用意に時間をいただけるなら…是非」
はい、と是の返事を返そうとした彼女だが、自身の格好を思い出して言葉を続ける。
気分を害した様子もなく、彼は「門で待とう」と言い残して部屋を去った。
残された紅は、緊張から解放されたようにくたりと畳みに伏せる。
「…まさか、誘ってくれるなんて…」
火照る頬を両手で包み、そう呟く。
こんな些細なことが、こんなにも嬉しいのだと―――この心の内全てを伝えてしまいたい。
迷惑になるからと隠し続けている心は、静かに、時に激しく昂りながらも、解放の時を待ち続けている。
伝えてしまえば変わるかもしれない何かに、期待するよりも怯えてしまう。
彼女が、言葉が足りないのだと気付くのは、いつの事なのだろうか。
日焼けの跡すらない畳を見つめていた紅は、やがてパッと身体を起こした。
彼を待たせる時間が一秒でも短くなるように。
帯を解く間ももどかしく、外出用の着物を片付けている箪笥へと近付いた。
果たして、言葉が足りないのは、彼女か―――それとも、彼か。
【 届くことのない 声 】 朽木 白哉 / 睡蓮