002.棄てられない
室内の空気を吸い、ひんやりとしたそれを手の平で弄ぶ。
こんなにも軽くてちっぽけなものに、どれほど救われたのだろうか。
所謂遊女が挿す様な豪勢なものではなく、それこそ日常生活のささやかな彩の為に使うような、質素なもの。
少し動かせばシャラ、と耳に優しい音を響かせるそれは、手入れの行き届いた簪だ。
もう何十年も前に自分の元へとやってきたこれを、いつまでも棄てられずに居る。
何度、情けなく表情を落としたままこの簪を磨いただろう。
これが自分の元へとやってきたその時だけは変わって欲しくないと、そう縋るかのようだ。
「他の何を棄てても、これだけは…そう思うことも、許されないかしら」
そう呟き、自嘲の笑みを零す。
独り言など寂しいだけだが、ここには声をかけるような人も居ないのだから仕方がない。
尤も、自分の自室で声をかけるような人が居れば、それはそれで心が休まらないのだろうけれど。
何をするでもなくそれを見下ろしていた彼女の耳に、近付いてくる足音が聞こえた。
「お嬢様。白哉様がお見えになっておられます」
「白哉様が…すぐに参ります、とお伝えして、お茶の用意を」
「あの、それが…」
自分の言葉に戸惑う侍女に、心中で首を傾げる。
彼女が無断で部屋に進入する筈がない。
そう思っていたから、手の中のそれを隠すこともしなかった。
彼女は数秒後、そんな自分の行動を悔やむことになる。
スラッと、無言のままに開かれた襖の向こうに白哉が居た。
驚いた彼女の視界には、白哉の向こうで酷く困った様子で頭を下げる侍女が見える。
先ほどの戸惑いは、本人がすでにここに居るからだったのか。
頭の中の冷静な部分が、そう納得した。
「お嬢様、あの…」
「…構わないから、下がっていいわ。後からお茶を持ってきてくれる?」
謝罪を口にしようとする侍女の言葉を遮って微笑めば、彼女は深く頭を下げてから去っていく。
その背を見送り、思い出したように手の中のそれを自然な動作で手拭いに包んだ。
「ご連絡いただければ、私の方から―――」
冷たい指先が手に触れた。
驚いたように動きを止めた彼女の背中から伸びた指先が手拭いを広げ、中に隠されようとしていた簪を暴く。
彼の手がそれを広い、自身の目の前へと運んだ所で、漸く彼女もそれを追うように身体を反転させることに成功した。
「随分と…」
白哉の声が鼓膜を震わせる。
「随分とまた、懐かしいものを…」
「…申し訳、ありません」
元許婚と言うだけの自分が、何十年も前に彼から受け取ったものをいつまでも棄てられずに居ることを、彼はどう思うのだろうか。
確認する勇気はない。
「こんな安物は兄には似合わぬ」
「いいえ―――戴いた…ものですから」
目が、棄てればいい、と訴えている。
それに気付くと、彼女は指先で簪を遊ばせる彼から視線を逃がした。
小さく溜め息を吐き出す彼に気付き、きゅっと唇を結ぶ。
そんな彼女の手の平に、簪が返された。
「兄は物好きのようだな」
「白哉…様」
「それは兄に与えたもの。好きにするがいい」
用件であった手紙を彼女の手元へと残し、彼は足早に彼女の屋敷を後にした。
再び一人になった部屋の中で、ギュッと簪を握り締める。
冷たかった簪には、ほんのりと彼の体温が残されていた。
【 棄てられない 簪 】 朽木 白哉 / 睡蓮
09.01.18