092.常識でしょう。
隣の担任が休みで、流川のクラスとの合同授業が行われている最中の事だった。
今日も今日とて惰眠を貪る流川に、普段の彼を知らない隣のクラスの一人が手を挙げた。
「せんせー。流川君が寝てます」
「ん?あぁ、流川か…雪耶はどうした?」
流川の担任が教室を見回す。
そこで、別の一人…今度は流川のクラスメイトが、声を上げた。
「今日は家庭の事情で遅刻です。終わったら来るって言ってました」
「あー…そうだったな」
「起こしますか?」
そう尋ねたのは、例の生徒だ。
「いや!止めろ、触るな起こすな!構わないから寝かせておけ!!」
「止めてくれ!」
「流川君を起こしちゃ駄目よ!!」
担任を初めとする、流川のクラス関係者がこぞってそれを止める。
あまりの剣幕に、隣のクラスの全員が何事かと驚いた表情を見せた。
とりあえず、彼を起こしてはいけないということはわかったらしく、例の生徒が着席する。
嵐が去った後のように、ふぅ、と達成感に似た溜め息を吐き出す担任。
「良い事…かどうかはわからんが、一つだけ教えておいてやろう」
神妙な顔をして話し出す彼に、隣のクラスの皆が注目する。
「寝ている流川は起こすな。こいつは恐ろしいほどに寝起きが悪い」
「「「………………………」」」
果たして、それは神妙な顔で言うようなことだろうか。
実際にその様子を見たことがない面々は、「大丈夫なのか、このクラスは」と言った感想を抱く。
しかし、不思議なのは誰一人として担任の言葉を笑わない流川のクラスメイトたちだ。
誰もが彼の言葉に素直に頷き、視聴覚室の中が微妙な空気に包まれる。
「そ、そんな…いつもボーっとしてる奴ですよ?バスケが上手いからって、優遇されすぎでしょ」
一人の勇気ある生徒が声を上げ、ガタンと席を立った。
嫌な予感がする、と思った瞬間、彼は流川の肩をバシンと叩く。
「おら、流川!授業中に堂々と寝るなよ、羨ましい奴め!!」
叩かれた反動で、流川の頭がガン、と机にぶち当たった。
シン、と静まる部屋の中。
どうなるのだろう?と興味深い生徒と、どうなるのだろう、と青褪める生徒と担任教師。
どちらがどのクラス、と言うのは言わずもがな、だ。
中学生にしては長身の身体が、ゆらり、と不気味に立ち上がる。
感情の篭らぬ眼に見下ろされ、勇者はヒクリと口角を持ち上げた。
「―――俺の眠りを妨げる奴は―――」
「失礼しまーす―――って、何事ですか?」
休み時間に入り、ガラッと視聴覚室のドアを開いたのは、一度話題に出た雪耶紅だ。
彼女は、モーゼの十戒の如く両側に割れた人波に、不思議そうに首を傾げた。
しかしながら、その中心で悠々と眠る流川を見て、何となく状況を理解する。
「おー、雪耶。やっときたか」
「遅れてすみませんでした」
「いや、連絡は聞いてるから構わないぞ。それより、来て早々悪いが、起こしてやってくれ。
ついでに、後ろに連れて行ってくれると助かるな。そこで寝られると授業にならん」
流川のクラスの全員が、神頼みなど意味を成さないことを知っている。
頼むべき相手は神ではなく、同じクラスメイトである紅なのだ。
担任の頼みに「はい」と返事をした彼女は、後ろの方で空いている席に鞄を置く。
それから、机にうつ伏せている流川の正面の方に回り、しゃがみ込んだ。
「流川」
「……、…?」
第一声で、流川の肩がピクリと動いた。
ゆっくりと顔を持ち上げた彼の視界に入るように、紅が位置を調整する。
「流川、起きなよ」
「………ム」
「邪魔だから後ろに行こうよ」
そう言って後ろの方に空いている席を指す。
紅の指の先を辿った彼は、少しぼんやりとしてからガタッと席を立つ。
そして、のそのそとした動きで彼女が示した方へと歩き出した。
紅が鞄を置いていた席の隣へと辿り着くが早いか、再び机と仲良くなる彼。
それを見届けてから、紅は担任を振り向いた。
「よくやった」
グッと親指を立てる担任と、救世主を見たような顔のクラスメイトと、化け物を見たような隣のクラスの面々。
紅は肩を竦めて苦笑を浮かべてから、鞄を置いた席へと向かった。
「―――と言うことだ。これはうちのクラスの常識だから、忘れんようにな」
流川のクラスの常識は、隣のクラスのメンバーによる10年後の同窓会でも話題になったと言う。
流川 楓 / 君と歩いた軌跡