065.名前
「紅」
口の中で、そう呟く。
舌がその名を紡ぐように動くのが、少しばかりくすぐったい。
名を発するのと同時に胸に灯る温かいそれに、彼女は小さく笑みを浮かべた。
「どうした?」
不意に、背中側から左右両方に伸びてきた腕が、彼女の身体を攫っていく。
すっぽりと広い腕の中に閉じ込められた紅がその腕の主を見上げた。
「何でもないわ」
「そうは見えないな」
嬉しそうだ、と告げる低い声。
スッと頬を撫でられ、初めて口角が持ち上がっていることに気付いた。
紅は蔵馬の腕の中で身体を反転させ、自身もしっかりと彼に抱きつく。
「嬉しかっただけ」
「的を射ない会話だな」
「あら、あなたも十分楽しんでいるように見えるわ?」
微笑んだ彼女が、僅かに笑みを浮かべる彼の唇を指先でなぞる。
そして、彼女はねだる様に彼の胸元に頬を寄せた。
「ねぇ、呼んで?」
「読む?それとも呼ぶか?」
「…何なら、そこで山を作っている報告書を読んでくれても構わないけれど?」
冗談を含ませる二人の会話は、静かに、けれどもテンポよく進んでいく。
蔵馬は喉で小さく笑ってから、彼女の耳元に唇を寄せた。
「紅」
鼓膜が震えるのと同時に、ゾクリと背筋が逆立つ。
佐倉と呼ばれた時には得られない感覚。
彼によって与えられた、愛すべき名前。
その名を呼ばれる時だけは、九尾の狐も何も関係なく、ただの妖狐になれる。
「ねぇ、蔵馬」
「どうした?」
「ありがとう」
何度お礼を言っても、足りる事はない。
彼によって救われ、与えられ―――その怖いほどの影響力に、驚かされる。
けれど、もう手放せないとわかっているのだ。
麻薬のようにじわりと紅の中に入り込んだ彼と言う存在は、細部にまで根を張っている。
それを失っては生きていけないだろうと錯覚させるほどに。
「紅」
「何?」
「…何も」
呼ばれるだけで満足なのだと言う、彼女の心を読んでいるかのようだ。
蔵馬の言葉に、紅はクスリと微笑んだ。
妖狐蔵馬 / 悠久に馳せる想い