感じるままに歩いた先に、彼はいた。
江戸の外れ、誰もいない夕暮れ時の河原。
気配に敏い彼が気付いていないとは思わない。
ザク、短い草を踏み、紅は彼の後方数メートルの所で足を止めた。
言葉を探していると、示し合わせたわけでもなく、その背中が振り向く。
「―――生きてたか」
驚きではない。
彼がそう言う理由は、砕けた逆鱗にあるのだろうと察する。
安堵―――変化の乏しい表情の中に、その感情を見た。
意図したわけでもなくそれに気付いた時、溢れた感情を何と呼べばよかったのだろう。
多くの事を知ったが故に、踏み出せなくなった大人のように。
紅は、高杉の元へと駆け出す事が出来なかった。
数メートルの距離を挟み、向かい合う二人。
「…新しい巣を見つけたか」
紅の変化を言及せず、高杉は感情の読めない表情でそう呟く。
彼の言葉に、紅の朱い眼が静かに細められた。
「………昔…言った事を覚えてるか?」
どの言葉だろう―――記憶の中を探る。
「「“俺の邪魔をすれば、遠慮なく殺してやる”」」
二人の声が重なった。
「…聞いたわ。覚えている」
忘れた事などない。
生きる意味を見失っていて、望まれるままに高杉の手を取った。
誰かと共には戦えないと不安を口にした紅に、彼はそう言ったのだ。
あの言葉を思い出し―――紅は、薄く微笑んだ。
出来るはずがないと嗤ったのではない。
この約束があったのかと安堵し、笑ったのだ。
「晋助。私は恐らく…いいえ、きっと、確実に…あなたの敵になる」
この一言で、高杉は全てを察してくれるだろう。
彼が“巣”と称した場所が、天人の住処だと言う事を。
尤も、紅を従えられる者が、人間であるはずがないのだけれど。
すらりと現れた刀身。
白銀のそれが、夕日を反射させる。
ザリッと草地を踏み、近付く音にも、紅は怯む事無く前を見据えていた。
抜き身の刀が、どうなるのか―――わかっているのに、彼女の心は穏やかだ。
まるで憑き物が落ちたかのような、安心感。
―――晋助の手で、終われる。
心と本能が別々で、ぐちゃぐちゃだった身体は、ずっと救いを求めていた。
終焉と言う名の、救済を。
本能の決定に納得したつもりになっていただけで、結局求めていたのはこれだったのだ。
チャキ、と鍔が鳴り、首筋に刃の冷たさを感じた。
それまで、瞬きすら惜しむように高杉を見つめていた紅は、静かに瞼を伏せる。
暗闇の中で浮かんでくるのは、かつての日々と…鬼兵隊で過ごした日々。
浮かんでは消えていく仲間たちとの時間。
これを、人は走馬燈と呼ぶのだろうか―――頭の片隅で、そんな事を考える。
どれほどの時間、そうしていたのだろう。
来ると覚悟した衝撃はないけれど、冷たい刃は今も紅の首に添えられている。
そこから1ミリたりとも動かない刃は、紅の熱を受けて少しだけ温度を上げていた。
伏せていた瞼を開き、目の前の彼を見る。
「…晋助…?」
彼の目を見た紅は、困惑の表情を浮かべた。
何かに耐えるように眉を顰め、様々な感情を映す高杉の片目。
斬れるはずがない。
刀を抜いて、敵として迫ってきている状況ならばまだしも、彼女は丸腰だった。
抵抗の意思すらなく、ただ全てを高杉に委ねる彼女を、斬れるはずがないのだ。
そんな風に斬り捨てられる相手だったなら、こんなにも長い時間を共にしたりはしなかった。
「………チッ」
引き結んだ唇から、不満げな舌打ちが零れ落ちたのをきっかけに、刃は紅の首を離れた。
どうして、と問える空気ではなかった。
刀を鞘に納め、ギュッと拳を握る高杉に、紅はかけるべき言葉を見失っていた。
「………俺が、テメーを斬れるか?」
ふと、彼は視線を逸らしたまま、そう問いかけた。
紅の答えは「是」だ。
ずっと、そうだと思って生きてきたから。
けれど、この瞬間―――紅は、その考えを伝える事が出来なかった。
もしかして、なんて架空の話ではない。
彼が、自分を斬れないのだと、知ってしまったから。
紅と高杉の関係は、仲間で間違いはない。
けれどそれは、本人たちだけが知る約束の上で成り立っているものだった。
有益ならばどんなものでも利用し、無益とわかれば容赦なく斬り捨てる。
紅は高杉をそう言う人間だと理解していた。
自分は彼を愛しているけれど、彼からの想いは違う。
少なくとも、他の誰よりも高杉の信頼を勝ち得ている自信はあったが、それだけだ。
それ以上の確信は持てなかったし、それでいいと思っていたのは自分だ。
手を引かれ、気が付いた時には紅は高杉の腕の中にいた。
骨が軋むほどに、力強い抱擁。
身体を重ねた事だって一度や二度ではないのに、こんな風に感情のままに抱きしめられたのは初めてだった。
言葉などなくとも、彼の強すぎる心が、伝わってくる。
―――ちゃんと、愛されていた。
触発されるように溢れた感情は、涙となって零れた。
縋る事を許されない身体が忌々しい。
今ほどに、天人である自分を憎んだ事はないと思った。
全てを捨てて人間に成れたらと―――決して叶わぬ願いに、唇を噛み締める。
声を殺す代わりに溢れる涙をそのままに、ただただ全身で“今”を感じる。
拳を握りしめ、爪が傷つけた手の平が血を流す。
どくん、と鼓動する心臓が、今この瞬間に止まってしまえばいいとさえ思った。
「何も考えるな。ただ、生きろ―――それだけでいい」
交わらない未来を知りながら、生きろと言う彼は残酷で、とても優しい人だった。