頭に血が上る、と言うのはまさにこの事か。
自分自身の感覚が、自らの手を離れて暴走している。
そう感じる心はあれど、それを制御するべき身体は、天人の血に支配されていた。
ただ、目の前の敵を斬る―――まるで、獣のような闘争心だ。
一方、神威は未だかつて感じた事のない昂揚感を抱いていた。
瞳孔が縦に割れた赤い目が、射抜くように神威を睨み付ける。
下手な天人では、その眼光だけで意識を失うだろう。
一太刀で巨大な宇宙船を真っ二つにしてしまうその腕。
刀が良いのではない、紅の腕がいいのだ。
紅の殺気を存分に吸収し、刀は驚くほどの切れ味を持っていた。
掠り傷一つで血飛沫が舞うような状況を、彼はこれ以上ないほどに楽しんでいる。
「やっぱり、君じゃないと駄目だね」
剣圧で裂けた頬から溢れ出た血。
指先で拭ったそれをぺろりと舐める。
こんな風に自分の血を流すのはいつ以来だろうか。
夜兎の本能が疼く。
勝敗を分けた要因は、やはり血だろう。
竜陣族の血は夜兎には劣らない。
けれど、紅の中には半分とは言え、人間の血が流れている。
100と50では、結果はわかり切っていた事だ。
紅は息を切らせたまま、地面に縫い付けられていた。
その薄い腹には神威の傘が突き刺さっている。
出来れば怪我をさせずに止めたかったけれど、そうは言っていられない状況だった。
神威自身も手加減できなかったのだ。
紅が原形をとどめ、かつ生きているだけでも奇跡と言える。
傷で言えば、神威の方が圧倒的に重傷だった。
珍しくも息を乱した彼は、ふぅ、と塊を吐き出す。
同時に口内に込み上げてきたそれを吐き出せば、舌に鉄臭さが残った。
肋骨も何本か折れているだろうし、内臓も無事ではないかもしれない。
「…本気で骨が折れたね」
笑顔を消してそう言うと、ゆっくりした足取りで紅に近付く。
そして、彼女を縫い付けていた傘を抜いた。
痛みに喘いだ紅が、口元からも血を溢れさせる。
紅はその痛みによって、意識を取り戻していた。
身体の話をするならば、彼女は一瞬たりともその意識を失っていない。
しかし、紅と言う人格は、暫くぶりに表へと戻ってきた。
天人の本能が勝っていた間、彼女の人格は自身の深い所へと沈んでいたのだ。
気が付いたら腹に風穴が開いていたと言っても過言ではない。
けれど、人格が沈んでいた間の事を覚えていないわけではなかった。
少なくとも、身体はその時間を覚えている。
腹の傷は酷く痛むし、血が流れ過ぎて貧血気味だ。
けれど…幸か不幸か、天人の血が彼女を生かすだろう。
いっそ、死ねた方が良かったのかもしれない―――紅が自嘲気味に笑った。
神威は紅の様子が見える位置に腰を下ろした。
一応、気を使って船から離れてはみたけれど、この位置から見ても船は大破。
被害は甚大だろう。
尤も、船の様子など神威にとってはどうでもいい事。
ちらりと船を一瞥した後は、視線を紅へと向けていた。
そして、彼女が自嘲の笑みを零したその時、漸く口を開く。
「ねぇ」
声は届いているはずだが、返ってくるのは無言ばかり。
それを気にした様子もなく、彼は再度、声をかけた。
「すっきりした?」
「!」
今度は、僅かに反応があった。
空を仰いでいた彼女の視線が、神威へと向けられたのだ。
それは紅自身も感じていた事。
気のせいと言うにはあまりにはっきりとした感覚だった。
募りに募っていたそれが爆発し、解消されている。
彼の言葉を借りるのならば、“すっきりした”、だ。
「ストレスの溜め過ぎは良くないよ?ちゃんと発散しないと。あぁ、でも…毎回こうだと怒られるかな」
怒られる事なんて気にしていないけれど、煩いのが何人かいる事は確かだ。
相変わらず笑顔で語る神威に、紅はただただ感情の見えない目を向けた。
彼はいったい、何がしたいのだろう。
自分の子を産ませると言った割に、一切手を触れてこない。
彼に限って遠慮していると言う事はない…はずだ。
それならば、何を企んでいるのか。
「…あなた、何がしたいの?」
顔にかからぬよう、口に溜まった血を吐き出してからそう問いかけた。
地球を出てから、彼女の声を聞いたのは初めてと言ってもいい。
嬉しそうに笑った神威を見て、彼女は漸く表情を見せた。
もちろん、訝しむようなものではあったけれど…それも表情である事に変わりはない。
「何を笑っているの」
「やっと声が聞けたと思って」
「………嬉しいの?」
「そうだね。人形みたいな君じゃつまらない」
変わらず笑顔の彼。
紅は少し沈黙し、もう一度同じ言葉を投げかけた。
「何が、か。目的は子供を産ませる事かな」
「…じゃあ、どうして何もしないの?」
「してほしいの?」
逆に問われ、紅は何も答えず冷めた目で彼を見る。
睨むと言っても過言ではないその目は、口ほどに物を語っていた。
だろうね、と肩を竦める彼は、彼女の答えなどわかりきっていたのだろう。
「ねぇ」
気を取り直したように、彼女を呼ぶ。
「名前は?」
「――――――」
また、新たな表情だ。
呆気に取られた様子の彼女は、二・三度瞬きをした。
「…知らなかったの?」
「うん」
そう言えば「ねぇ」だの「君」だのと呼び掛けられる事はあったが、名前を呼ばれた事はない…気がする。
しかし、今更だ。
地球を離れてからの正確な時間はわからないけれど、少なくとも数か月が経っている。
その間、ずっと名前を知らなかったと言うのか。
と言うより、そもそも名前も知らない女に子供を産ませようとしていたのか。
怒りを通り越して、呆れた。
「………紅」
「紅、紅―――うん、覚えた」
よろしくね、と伸ばされる手。
紅はその手と彼を交互に見る。
不思議と、抱いていた恐怖心が鎌首を擡げてくる事はなかった。
数秒間悩み、そして―――