知っていた。
けれど、予想していたより早かった。
姿を消そうとしていたその日、笑顔を絶やさぬ悪魔が、颯爽と紅の前に現れた。
「やぁ、久しぶりだね」
元気だった?と陽気に問いかける男に、紅は迷いなく刀を抜いた。
朝も早く、鬼兵隊のメンバーもまだ殆ど起きていないだろう。
紅を任された来島でさえ、まだこの部屋に来ていない。
「わぉ、朝から元気だなぁ」
真正面から斬り込んできた紅に、無作法な来訪者は驚いた様子もなく腕を上げた。
ギィン、と弾かれたわけではないけれど、まるで鉄にぶつかるような感覚。
加速度も味方していたはずの攻撃は、神威の皮膚にかすり傷一つ負わせることが出来なかった。
「そんな刀じゃ傷一つ付かないって。夜兎って丈夫だからさ」
からからと笑いながらそう言う彼に、紅は2歩半身を引いた。
そして、ぐっと腰を落として刀を低く構え、ダンと床を蹴れば、踏み切った位置の畳が弾ける。
刀に触れる直前、垣間見えた紅の眼に、神威は一瞬だけ笑顔を消した。
「…へぇ…流石に“朱羅”と呼ばれるだけの事はある」
神威の手に握られた傘が、紅の刀を受け止めている。
先程は余裕すら見せながら腕で受け止めて見せた彼だが、攻撃の深さを正しく読むだけの経験はあった。
紅の二撃目のそれは、受け止めるであろうその腕を落とせるだけの深さと速度で斬り込まれたのだ。
―――最後まで油断していてくれればよかったのに。
紅は刀と傘で鍔迫り合いをしながら、心中で舌を打つ。
「うん。やっぱり、竜陣族の血は半分でも凄いね。傘を使う事になるなんてなぁ」
予想以上だよ、と彼が笑う。
その顔は先程よりも嬉しそうに見えた。
傘を弾くようにして後方に飛んで距離を取る彼女。
その目が赤く染まっていた。
身体を馴染ませるように二・三度深呼吸をして、彼女は刀を構える。
神威の方も先ほどの余裕を見せず、傘を構えた。
両者が床を蹴って、二人の距離が限りなくゼロに近付き―――
「姐さん…?」
聞こえた声によって、紅に一瞬の隙が生まれる。
その一瞬は神威には十分すぎる時間だ。
目の前に迫った傘が見えたかと思ったら、次には身体が壁に吹き飛ばされた。
ギリギリの所で刀により傘の直撃を防いだけれど、代わりに背中を庇うものがない。
「姐さん!!貴様、何者っすか!?」
紅を攻撃した者が味方であるはずがない。
来島は即座に銃を抜き、神威に向かって構える。
一方、神威はそんな彼女を見向きもせず、自身の刀を見下ろして、うんうん、と頷く。
「あの攻撃にも反応するか。直撃だと思ったんだけどな」
「…っ…人を無視すんな!!」
ガゥン、と彼女の銃が火を噴いた。
しかし、それは悪戯に畳に銃創を残しただけ。
神威の姿はない。
どこに―――と視線を動かそうとしたところで、後ろから声が聞こえた。
「駄目だよ、弱い奴は不用意に手を出しちゃ」
高杉のように低い声ではないのに、何故こうも背筋がゾクリとざわめくのか。
来島は、それを理解するよりも先に彼の攻撃を受けた。
まるで虫を払うような動作だったのだが、それだけで彼女の身体は木の葉のように飛ぶ。
そして、紅とは反対の壁にぶつかり、反動で崩れ落ちた壁に埋もれた。
「…やっぱり駄目だな、うん。君以外はありえないよ」
確かな手応えを感じた手を見下ろしてそう呟く。
この程度が避けられないような女では意味がない。
違う―――はっきりとそれを自覚した。
「勝手に決めないで欲しいわね」
ガラッと瓦礫を押しのけて身体を起こす紅。
左腕の肩が外れている事に気付くと、彼女はゴキン、と自分でそれをはめた。
目が赤い時は、痛覚に対しての感覚がいつもより鈍る。
一種の興奮状態による麻痺だろう。
「…春雨第七師団の団長、神威」
「へぇ、俺の事調べたんだ?」
「逃げられない事も、逃がすつもりがない事も―――理解しているわ」
紅は右手に握った刀を手の中でくるりと反転させる。
そして、逆手にそれを構え、刃を自身の急所へと向けた。
「敵の手中に落ちるなんて、冗談じゃない」
「んー…。鬼兵隊は、春雨と手を組んだって話だったと思うけど」
「私にとっては敵よ。それに、利害が一致したから一時的に手を組んだだけでしょう」
「まぁ、確かに。それは言えてるね」
困った様子もなく、どうしようかなぁ、などと呟く彼。
この瞬間ですら隙のない男に、紅は静かに目を細めた。
脅しではなく―――彼女は、本当に刀で自身を貫く覚悟している。
それを理解した神威が口を開く。
「そんなに嫌?何も殺そうってわけじゃないし、師団の男の相手をさせようってわけでもない。大事にするよ?」
「相手が誰だろうと関係ない。私は、この場所で生きていたいのよ」
「話し合いの余地なし、か。無理に連れて行こうとすれば、すぐにでも死にそうだね」
仕方ない、と呟いた彼は、ゆっくりと歩き出した。
紅に近付く方にではなく、壁沿いに移動する彼。
それを大人しく見送ってしまった事が、最大のミスだった。
「…!何をする気!?」
彼の進む先、その目的に気付いた紅が声を上げる。
しかし、動くには時間が足りなかった。
彼の手が、壁の瓦礫の中から来島を引き摺り出す。
「その子は関係ないでしょう!」
「大丈夫、連れて行ったりはしないよ。弱い女は要らないからさ」
その首を掴んでぐいと持ち上げた。
頭を打っているのか、彼女の金髪は赤く染まっていて、足元からパタリ、と血が落ちる。
彼女の意識はない。
「女を甚振る趣味はないんだけど…時と場合による。月並みだけど、一応言っておこうか。
こいつを無事に帰して欲しかったら、大人しくしててよ。ついでに刀を鞘に戻してね」
一度も笑顔を絶やすことなく、彼は残酷な言葉を吐いた。
自身へと突きつけていた刃先が不安定に揺れ、やがてゆっくりとその腕が下がっていく。
紅は無言で刀を鞘に戻した。
それを見た神威が手を放せば、来島の身体はそのまま床へと崩れ落ちる。
「じゃあ、行こうか。刀は持ってきていいよ。俺を斬りたければ、いつでも向かってきていい。
でも、自分を斬るのは禁止ね。破った時は―――まぁ、わかってるか」
神威に腕をつかまれても、紅は抵抗しなかった。
ただ鋭い視線を向けるだけ。
「いつか…殺すわ」
「うん。俺を殺せるくらいに強くなってね」
期待してるよ。
そう言った彼は荷物のように紅を担ぎ上げ、窓から部屋を飛び出す。
「―――ごめん」
遠ざかるそこに向かって告げた謝罪は、誰に対するものだったのだろうか。