窓際で煙管を吹かしながら、高杉は窓の下を流れる川を見下ろす。
水の流れを見つめ、先程の事を思い出した。
決して大きくはなかった紅の声が、耳に付いたまま離れない。
しっかりと刻まれた声は高杉が驚くほどに小さく、風音一つに飲み込まれてしまいそうに儚いものだった。
思い出したいとは思わないのに、彼女の声が消えない。
高杉はチッと舌を打った。
「晋助様、お呼びっすか?」
タタタ、と足音を響かせて部屋にやってきたのは来島また子。
彼女を呼んだのは他でもない高杉自身だ。
「入れ」
そう一言声をかければ、彼女は頭を下げてから室内へと一歩を踏み出す。
間髪容れずに告げられた、閉めろ、と言う言葉には、少し躊躇ったようだ。
しかし、高杉に忠実な彼女はそれを実行に移す。
「――――」
「晋助様?」
「紅に変わった様子はないか」
沈黙を経て、恐る恐る彼を呼んだ来島に対し、漸く重い口を開く彼。
「姐さん、ですか?」
来島の確認に視線一つを返す高杉。
彼の望む答えを渡せるようにと、彼女は記憶を探る。
心当たりは―――ある。
「数ヶ月前に、少し」
「何があった」
「確か晋助様と別行動で、どっかの星に行った頃だと思うんすけど…その頃から、手首に包帯を巻いてました」
詳しい内容は知らないのだと、申し訳なさそうに報告する。
様子がおかしいと気付いた時点で彼に告げるべきだったのかもしれない。
来島は、高杉が知っていて何も言わないのだと思っていた。
けれど、この様子を見る限り、彼は知らなかったらしい。
もしくは―――紅自身が、彼にだけは気付かれないようにと動いていたかの、どちらかだ。
再び部屋の中を沈黙が包み込んだ。
ふぅ、と紫煙が吐き出される。
「来島。暫く鬼兵隊の仕事は休みだ」
「はい」
「紅と行動しろ。あいつから目を離すな」
高杉は彼女と視線を合わせることなく、窓の外を見たままそう命じる。
だから、その内容に彼女が驚いた表情を見せた事に気付かなかった。
「姐さん、何かあったんすか?」
「――――…」
高杉は答えない。
今一度紫煙を細く吐き出し、煙管を片手に来島を振り向いた。
「任せたぞ」
まさか、そんな言葉を彼の口から聞く日が来るとは思わなかった。
初めの5秒は言葉の意味が理解できず固まり、次の5秒は驚きで固まる。
合計10秒と少しの間をおいてから、漸く唇が動きを再開した。
「―――はい」
その言葉の重みを、しっかりと胸に刻み込む。
下がれと言われた来島は、その足で紅を探していた。
彼女は鬼兵隊のナンバー2で、大抵の自由は許されている。
故に、根無し草のようにどこかに姿を隠している事もよくあった。
今回は見つけられるだろうか―――少し焦りながらも彼女を探す来島。
そんな彼女の視界の奥に、鮮やかな着物の背中が移りこむ。
動きやすいようにと切れ込みの入った着物の裾から覗く足は白く、その脚線美は思わず息を呑むほどだ。
「姐さん!」
その背中を呼び止める。
声が聞こえたのか、ピクリと反応した彼女がゆっくりと振り向いた。
「姐さ―――」
言葉が、途切れた。
振り向いた紅の眼が、獣を思わせるような鋭く冷たい赤を宿していたから。
かつて、天人との戦の時には幾度となく見せていた眼なのだが、来島は当時の彼女を知らない。
だが、そんな彼女を見たのは、一瞬の事だった。
「…また子。どうしたの?」
先程の、触れれば切れるような空気など微塵も感じさせず、紅が僅かに微笑んだ。
来島は、自分の手がしっとりと汗ばんでいる事に気付いた。
あんな殺気を帯びた眼は、高杉以外で見たことがない。
強い事は知っていたけれど、何故彼女が高杉と共に居るのだろうかと思った事もある。
けれど、あの眼を見れば納得できた。
彼女は―――高杉と、同じだ。
「どうしたの?」
もう一度、そう問いかける紅。
その表情に来島を案じる色が浮かび、彼女はハッと我に返った。
「な、何でもないっす!姐さんが帰ってきたって聞いたから、探してました」
何とか取り繕ったけれど、恐らく頭の良い紅には彼女の動揺はお見通しだろう。
「そう。少し、散歩をしていたの。この宿は、立派な庭を持っているのよ。見た?」
「見てないっす」
「また子も、少しはそう言う事に興味を持った方が良いわ。あなたも女の子なんだから」
「…そんなのは、必要ない…っす」
鬼兵隊に属した時から、女として生きる事を諦めた。
いや、鬼兵隊に入る前から女の生き方など、当の昔に忘れてしまっていたのかもしれない。
今更―――そう、今更、だ。
「志は立派かもしれないけれど、やっぱりあなたは女の子だから。思い出してもいいのよ」
そう言った彼女は、そっと来島の頬を撫でた。
そして、くるりと身体を反転させて歩き出す。
「姐さん?」
「もう一度庭が見たいの。付き合って」
彼女の言葉に手を引かれ、カラクリ人形のように動き出す。
姉が居たなら、こんな感じなのだろうか。
来島にとって、紅は高杉と同じ…いや、別の意味でとても大切だった。
だからこそ、問いかける。
「姐さん、何かあったんすか?」
ぴたり、と紅が足を止めた。
後ろの来島を振り向く気配はない。
「…何もないわよ」
その次の日、紅は鬼兵隊から姿を消す。
彼女の部屋には、赤く染まった来島の姿があった。