山本くんのお姉さん
いつまでもこんな事ではいけない。
気を抜くとくじけそうになる自分を、そう叱咤した。
―――呆れるくらいに気の強い女だな。
そう言って笑ってくれた彼に、誇れる自分でありたいから。
「前…向いて行かないと、ね」
立ち直るのはきっと、容易な事ではない。
けれど、歩き出すことは出来なくとも、前を向く事だけは出来る。
顔を上げれば、そこが“前”になるのだから。
今日がその日だと知っていた。
けれど、何かの役を持っているわけではない紅は、家の中で落ち着かない時間を過ごしていた。
関わりがないなんて嘘だけれど、少なくとも今この状況の中で呼び出されるほどの繋がりはない。
紅の立ち位置は、限りなく一般市民に近い関係者だ。
「…できれば、怪我なく帰ってきてほしいけれど―――」
それが無理だと、知っている。
それならばせめて、無事に帰ってきてほしいと願うしかない。
紅は祈るような気持ちで携帯を握りしめた。
―――と、手の平に包んでいたそれが、くぐもったメロディを歌い出す。
「…武…?」
感じた胸騒ぎは、紅にとって吉と出るのか、凶と出るのか―――
走って、走って。
喉が擦り切れて、上手く呼吸が出来ない。
疲労を訴える足は、小さな段差にすら躓きそうになる。
けれど、それでも―――ただ、走る。
電話口で告げられた場所には、ディーノが一人の部下と共に立っていた。
「…紅」
来たか、と呟くように言われ、速度を落とした彼女は、彼らの前で足を止めた。
呼吸はままならないし、心臓は張り裂けそうなほどに煩い。
そんなことも気にならないほどに、紅の思考は別の所に囚われていた。
意を決して顔を上げた彼女に道を譲るように、ディーノが身を引く。
「一番奥の部屋だ。話は通してある」
行って来い、と声に背中を押され、ガラスのドアを潜る。
病院内は静かに、頭に刷り込まれた一般常識が、走ろうとする紅を押し留めた。
ゆっくりと足を動かしながら、呼吸を落ち着かせる。
呼吸は何とか正常な所まで回復したけれど、心臓の動きは寧ろ早くなっている。
ドクン、ドクン、と必要以上に力強く動き、まるで耳元で鼓動しているような錯覚すら抱かせた。
薄暗い廊下を進んだ先にある部屋は一つ―――紅は、震える手でドアノブを握る。
眠るように横たわるその人は、思い過ぎて夢にすら出てきてくれなかった人。
もう二度と、その姿を見ることは叶わないと思っていた。
けれど―――彼は、目の前にいる。
ヴァリアーとしての性なのか、眠っていた彼の瞼がゆるりと動いた。
ゆっくりと目を開き、この場所がどこなのかを確かめ―――その目が、紅を映す。
まるで、まだ夢うつつから抜け出せていないように、彼の目はただじっと、紅を見つめた。
そうして、どれほどの時間が過ぎたのか。
「―――紅」
掠れた声が呼ぶ、名前。
「…紅」
「…うん」
次から次へと零れ落ちる涙で、彼の顔が見えなくなる。
ただただ名前を呼ぶだけで、それ以上何も言おうとしないスクアーロの手が、紅へと伸びた。
時間をかけて頬へと辿り着いたそれに、自分の手を重ねる。
頬に触れた手の平は、温かい。
そのぬくもりが、彼の存在がここにあるのだと実感させてくれた。
恨みも安堵も、心配も喜びも。
言いたいことは、それこそ山のようにあった。
「……スクアーロ―――」
ただそれだけを紡いで、残りは全て、口付けの上に乗せた。
廊下から控えめな声で呼ばれ、静かに顔を向ける。
再び眠りについたスクアーロの表情に苦痛の色はなく、そのことに安堵しつつ、パイプ椅子から腰を上げた。
自分にできる最大限で気配を殺し、病室を後にする。
「―――悪かったな」
廊下に立っていたディーノが、開口一番そう言った。
何に対する謝罪なのかを理解しながら、紅は笑顔を返す。
「ありがとう」
全てを隠すことだって、出来たはずなのだ。
彼の生存を告げなければきっと、紅にはその存在を知る術はなかったし、知ろうとも思わなかっただろう。
現に彼女は、懸命に前を向こうと頑張っていたから。
「………礼を言われるところじゃねぇって」
マフィアのボスとは思えない、この優しい人に向ける言葉は、やはりこれしかない。
「うん。それでも…私にとっては“ありがとう”だから」
ぬか喜びではない、確かな希望に“ありがとう”を。
12.08.15