山本くんのお姉さん
「紅、さん―――」
ツナが振り向いた先には、声もなく、ただ画面を見つめる紅がいた。
スクアーロを隠し、血の色を濃くした水面を、じっと見つめる。
まるで、その目に焼き付けるかのように。
既に形成され、安定したはずのピアスホールが、ずきずきと痛む。
忘れるなと、その存在を思い出させるかのように、何度も。
「―――お帰り、武」
「姉さん…俺…」
言葉を詰まらせる弟を、紅はただ抱きしめた。
何も言わなくていい。
ぎゅっと抱き締め、彼を解放する。
「傷の手当てをしてもらいなさい」
「…ああ」
抱き締められて、気付く。
何かを言おうとしても、何も言えない。
彼女の手が、身体が―――小さく、震えていた。
どうやって家にたどり着いたのかわからない。
いつの間にか自室の中にて、後ろ手にドアを閉めた音で、ハッと我に返る。
何も変わらない二十年、生きてきた室内。
彼と知り合ってからも、この部屋の中は殆ど変らなかった。
だって彼は、一度たりともこの部屋に入った事はなかったから。
部屋の中に、その面影はない。
けれど―――
「―――」
覚束ない足取りで窓辺へと歩く。
そこから見える風景に、紅は静かに唇を噛んだ。
家の前に立つ、何の変哲もない電柱―――彼はよく、そこにいた。
死に対する恐怖を映さず、何かを見つめるように宙を見るスクアーロの眼差し。
モニター越しに、彼の目が自分を見ているような、そんな気がした。
獰猛な捕食者が、彼へと迫る瞬間。
「―――紅」
気付いていた。
最期の瞬間に、彼の唇が紡いだ言葉。
「馬鹿よ…私の名前なんて…」
全てを忘れて、弟を敵と見做して、容赦なく戦っていたくせに。
最期の最期で、彼が紡いだ言葉は、紅の名前。
最後まで剣士として逝ってしまったのなら、酷い人と責めるだけで良かったのに。
よりによって―――
「忘れられないじゃない…っ」
零れ落ちた一滴を境に、次から次へと流れだす涙。
堰を切ったように、溢れ続けるそれは、紅の声なき叫びだ。
好きにならなければよかったなんて、言えない。
だって―――彼を愛して、幸せだった。
彼がどこにいて、何をしていて、どう言う人で―――そんな事は、何一つ関係なく。
彼の全てを、愛していた。
いつかはこんな日が来るかもしれないと、不安に押しつぶされそうになって涙と共に夜を過ごした日もある。
それでも、この想いを止める事なんて出来なかったから。
「………好き…」
手の平から零れ落ちてしまったのに、まだ、こんなにも。
何処にも向けられない感情が、身体の中で暴れまわる。
解放される事のない慟哭が、涙となって溢れ続けた。
一瞬でも交わった事が奇跡だったような、そんな二人だった。
薄氷の上に佇む関係の中で、それでも構わないと―――泡沫のような恋をした。
これから先に続くであろう長い人生の中で、彼を過去の人にできるのだろうか。
彼以上に、誰かを愛せるのだろうか。
そんな自分の未来を、これっぽっちも想像できない。
「言えばよかった」
―――言えなかった。
ずっと、胸の奥に押し込めていた不安を、口にすれば良かった。
そう後悔したけれど、今この瞬間に過去に戻ったとしても、やはり自分は何も言えないだろう。
止めてと口にするのは、彼と言う人の全てを否定してしまう事に繋がるから。
死の傍らに立つ危うさも全てひっくるめて、スクアーロと言う人だったから。
ドアの向こうから聞こえる小さな慟哭。
山本は無言で拳を握り、踵を返した。
玄関の戸をあけて外に出ると、心配そうな仲間の視線が彼に集まる。
「…紅さんは?」
控えめに、気遣うように尋ねるツナ。
手当てを終えたばかりの山本の身体は、あちらこちらに包帯が見える。
痛々しい身体の傷跡よりも、彼の心が嘆いていると感じた。
彼はやはり無言で、小さく首を振る。
「なぁ、ツナ…俺―――」
―――どうすればよかったんだろうな。
紅が多くを語らず、「お帰り」と告げたその心に、偽りはなかった。
山本の無事を確認し、ほっとしたようにその身体を抱きしめた事も。
けれど―――勝者も敗者も、彼女にとっては大切な人だった。
敗ければよかったとは思わない。
けれど、勝ってよかったとも思えなかった。
「山本…」
何も言えないけれど、彼の悲しみに寄り添うように。
ツナたちはそこにいた。
彼らから少し遠い位置に停めた車の中、ディーノが難しい顔で唇を結んでいる。
「ボス―――教えないのか?」
「…状況的に、安心は出来ないからな」
戦う前から、こうなる可能性を知っていたディーノは、この不安を抱いていた。
そしてそれは、現実のものとなってしまった。
心を痛める少年を見つめ、ディーノは小さく息を吐く。
マフィアに、しかもよりによって、ヴァリアーに恋をした彼女。
こうなるとわかっていたから、止めた事もある。
そんな彼に、彼女はこう言った。
―――しょうがないんです。だって…好きになってしまったから。
「ごめん、な」
もし、あの命の灯を救えたなら、必ず。
その時は全てを話すからと、彼は車を発進させるよう命じた。
12.02.25