山本くんのお姉さん

見下ろす銀髪に月光が降り注ぐ様子は、呼吸を忘れるほどに美しかった。

「…綺麗ね」

思わず呟いた言葉に、男の切れ長な目が見開かれる。









「一ヶ月、イタリア旅行に行ってくるわ!」

こまめに貯めたお小遣いを全て換金し、行った先の予定なんて何も立てずに日本を出発した。
父や弟は、多少驚きはしたようだったが、大して引きずる事もなく「気を付けてな」と送り出してくれる。
そのあたりの軽さと言うか…ある種の信頼は、血筋なんだと思った。





日本で感じられないものを得られればいい。
漠然と、そんな事を考えて降り立ったイタリアの大地。
一人旅できるほどにイタリア語を話せるわけではなかったけれど…女は、度胸だ。
やってみれば案外どうとでもなるもので、最初の一週間は市場で知り合った老夫婦宅にホームステイ。
身振り手振りを交えた拙い語彙力にも嫌な顔一つせず、色々な事を教えてくれた。
一か所を拠点にしてしまっては駄目だと思い、老夫婦の家を出たのは二週目の事。
二人は、三つ隣の町に知人がいるから頼りなさいと手紙を持たせてくれた。
自分を過信せず、厚意に甘えて頼った知人は若い夫婦。
イタリアの中でも中心的な町で、お世話になったのは二週間。
ご馳走した寿司は、とても好評だった。
父にはまだまだ遠いけれど、多少は見られる腕になっておいて正解だったと思う。
四週目は、若夫婦のおススメのホテルで一週間、部屋を取った。
セキュリティはしっかりしているし、料理も美味しく、ホテルマンは紳士的だ。
それなのに安いと言う、素晴らしいホテルを中心に、近くの町を回っては帰る日々。

そうして迎えた、イタリア旅行ラストの一週間。
私は、私の世界を変える男と出会ってしまった。















さぁ、入れと言わんばかりに、暗い口を開く裏路地。
日本で生活していると、都会にでも行かない限りお目にかからないような…典型的な、裏路地だ。
好奇心をこれでもかと刺激するそこに、誘われるように足が動いていく。
駄目だと危険信号を発する自分がいた事も否定しないけれど、好奇心には勝てなかった。

「裏路地の初体験がイタリアとは…喜ぶべきかしら」

呑気だと言う事なかれ。
未知の世界へと進む、不思議な高揚感がそうさせたのだ。
そうして進んだ先、建物の構造の関係なのか、ぽっかりと月明かりが落ちている場所に気付く。
そこに、彼はいた。

「………死んでる?」

思わず息を殺し、そっと近付く。
路地脇に置いてあった木箱に寄りかかる様にして、地面に座り込んでいる男。
長い脚をこれでもかと伸ばして俯くその姿は、普通の状態とは思えなかった。
裏路地でこんな状況になっている男に近付くのは、馬鹿な行動だと思う。
けれど―――その時は、何も考えていなかった。
ただ、本能の赴くままに足が動く。

「…近付くな」

唸るような低い声。
ぴたりと足を止めると、俯いていた頭がゆるりと動き出す。
男の目は、肉食獣のそれだった。

「生きていたのね。でも…怪我をしているの?」

男の黒い上着の脇腹が軽く裂け、黒く濡れている事に気付く。
周りが暗いから黒く見えただけで、太陽の下で見ればその色は赤なのだろう。
手負いの獣は、警戒するように目を細めた。

「聞こえなかったのか…?」
「この距離だから聞こえるわよ。って…日本語?」

意外な言語が男の唇から飛び出した。
思わず彼の顔をまじまじと見る―――どう見ても、日本人には見えない。

「テメーは…日本人だろーが。…おい!近付くなって…」

傷が痛んだのか、男の表情が歪む。
尚も近付くなと警戒を露わにする彼に、一歩近付く。
恐らく―――男の間合いへと。
それと同時に、忠告はした、とばかりに男が動く。
月明かりを反射したそれが私へと繰り出された。
身体の向きを変えてそれを避け、驚く男に軽く微笑んで見せてから伸びきった肘を突く。
もちろん、骨までは折らないように気を付けて、体勢を崩した男の足を払った。
咄嗟に背中で受け身を取る男の胸を跨ぎ、両腕を膝で抑え込む。

「手当て、してあげるから大人しくしていたら?この程度で抑え込まれるなんて…相当酷いんじゃない?」
「テメ…!どこのマフィアだ!?」
「はいはい。興奮したら血が足りなくなるわよ」

喧しく騒ぐ男を横目に、傷の具合を確認した。

「…上着が邪魔ね。脱いで」
「俺に関わ…な゛っ!!」

尚も騒がしい男の顎下に一発。
舌を噛んだらしい男が悶えている間にさっさと上着を脱がせた。
脇腹の傷はどう見ても刃物による傷で、穏やかな状況ではない事を悟りつつ、羽織っていたストールを外す。
気に入っていたけれど―――仕方ない。
歯を立てて細長く切り裂き、男の腹に強く巻きながら止血を施していく。
それを巻き終える頃には、男も大人しくなっていた。
もういいわよ、と言う合図に、ぽん、と軽く傷口を叩く。
声なく呻く彼を横目に、バッグの中を漁った。

「…生理用の痛み止めって傷にも効くのかしら…」

少し悩む。
だが、医者ではないし難しい事はわからないので、鎮痛剤なんだからないよりはマシ、とそれを取り出した。
漸く痛みが和らいだらしい男の口に三錠を放り込み、ペットボトルを差し込む。
睨む彼に気にせずボトルを傾けると、大人しくそれを飲み込んだ。

「そんなに睨まなくても、ただの鎮痛剤よ。市販のものだから効果は保証しないけど」

一仕事終えた後のような爽快感と達成感。
よくやった、自分。
心の中で褒めると、ゆっくりと立ち上がる。

「…何が目的だ?」
「別に。そのまま死なれたら後味が悪いでしょ。…死なないとは思うけど」

そう言って肩を竦め、荷物を拾い上げた。
ストールを失ってしまったから、夜風が少し寒い。
寒さに一度、肩を震わせてから、腑に落ちない様子の男を、改めて見下ろした。
長い銀髪に癖はなく、彼が動く度に緩やかに揺れる。
それが月光の下で動く様子は、とても美しかった。

「…綺麗ね」

思わず呟き、男の目が軽く見開かれる。
そんな反応に小さく笑ってから、路地の出口へと歩き出す。

「何の見返りも求めないけど…気になるなら、今度会えたら美味しいジェラートでもご馳走してくれればいいわ」

お元気で、と半ば嫌味の言葉を残し、彼に背を向ける。
声も彼自身も、何一つ追っては来なかった。

11.11.15