百花蜜
通された部屋の中に居た男…いや、まだ若い青年と言うべきか。
彼を見て、紅は目を細めた。
「…私を呼び出す為にしては、随分と手の込んだことをしますね」
咎めるように軽く睨めば、彼…入江正一は、眼鏡の奥でスッと視線を逃がした。
どこか後ろめたいものを抱えているのだろう。
「私は、今度の同盟ファミリー交流の打ち合わせに来たはずですけれど…これはどう言う事ですか?」
正一のことは、白蘭の部下として評価している。
と言うのも、白蘭が正一のことをそれなりに評価し、期待しているからだ。
紅自身も、真面目に仕事をこなす彼を嫌う理由はどこにもなく、良き同僚として接していたはず。
それなのに、自分はここにいる。
恐らく、打ち合わせは偽りのもので、彼の思惑によりこの部屋へと呼び出されたのだろう。
その程度のことは考えなくてもわかる。
「すみません。これしか、白蘭さんに悟られずにあなたを呼び出す方法が考えられなかった」
「個人的なお話ならば、きちんと声をかけてくれれば対応します」
「ミルフィオーレの事です。とても…大切な事なんです!」
声を荒らげた正一に、紅は軽く目を見開く。
そして、溜め息を吐き出した。
「ミルフィオーレが関係しているのならば…何よりも、誰よりも先に、白蘭様にお話すべきでしょう」
「それは…!それは、駄目なんです」
「何故?」
「……………」
肝心な所で口を噤んでしまう彼。
これでは、話が進まないではないか、と思う。
「今回の件は、白蘭様には報告しないから…二度と、こんな真似はしないで」
冷たくもそう言い放つと、紅は立派な椅子から立ち上がった。
立ち去ろうとする彼女の背中を呼び止める言葉を捜す。
しかし、考えている間にも彼女は一歩ずつ確実にドアへと向かっていて―――
「白蘭さんはとても恐ろしい事を目論んでいます!放っておけば、多くの人が犠牲になるっ!!」
ぴたり、と紅の足が止まった。
振り向いた彼女の表情は、とてもではないけれど正一の言葉を信じているものではない。
寧ろ、呆れているように見えた。
「―――…だから、何だと言うの?」
「白蘭さんを止めてください。一番近いあなたの声なら…届くかもしれない」
「………随分と前に、同じようなことを言っていたわね。あの時、あなたは理由を言えないと言った」
思い出すように、紅はゆっくりとした動作で振り向く。
そして、ドアの脇の壁へと背中を預け、腕を組んだ。
普段のきっちりとした彼女からは想像もできない、大胆かつ牽制的な行動だ。
「今は、その理由を話せるの?ちゃんと…私を納得させられるの?」
「………」
沈黙する正一を前に、紅は再び溜め息を落とした。
彼の働きは、ミルフィオーレにとっては重要だ。
白蘭が彼を評価していることもあり、紅は彼に関しては黙秘を貫いた。
見えないところで色々と動いていることを知っていても、唇を閉ざしてきたのだ。
その結果が―――これだと言うのか。
「…申し訳ないけれど、雲を掴むような話に付き合うほど暇ではないの」
彼女はそう言って、彼との会話を諦めた。
白蘭に事の由を伝えるかどうかを悩んだけれど、今後の動向を見てからにしようと決める。
壁から背を放そうとした所で、正一が口を開いた。
「一つだけ―――紅さんは、あの時…認めてくれているから、と言っていましたよね」
どう言う事なんですか?と食い下がる彼に、紅は暫く沈黙した。
「…長男と長女では、人によっては全く違う価値を見出すものなのよ」
「紅、さん?」
「跡取り息子と、そうでない娘。馬鹿馬鹿しい考え方だと思うけれど、私の家はそんな考えを持っていた。
何をしても弟より優秀だった私は邪魔でしかなくて、高校卒業と同時に家を追い出されたわ」
紅自身も、決して好きな家ではなかった。
両方が望む形へと進んだのだが、やはり釈然としない想いを抱えていたことも事実。
金銭的な援助だけを受けて大学へと進学し、卒業して…大手の企業へと入社。
OLとしての働きと資格を買われ、社長秘書として働くこと数年。
紅は、白蘭と出会った。
「両親以外なら、認めてくれていた人は沢山いたわ。
でも、私が素直に受け入れられたのは、白蘭様の評価だけだった」
どれほど認められ、評価されても、それが自分の望む相手でなければ素直には受け入れられないものだ。
笑顔の仮面でありがとうございますと答えておけば、大抵の人は本心など気にしなかった。
一生懸命仕事をしているようで、どこか冷めていた紅。
そんな自分が、今は楽しいと思っている。
「結局の所、あの人自身を好いているのよ。褒めてもらえれば嬉しいし、残念に思われたくはない」
彼の心一つに一喜一憂する様は、まるで恋に恋する学生のようだ。
そんな学生時代を送ってこなかったから、今一実感は沸かないけれど。
「…白蘭さんが何を考えていようと、紅さんには関係ないんですね?」
「ええ。…自分でも、盲目的だという事は理解しているわ」
けれど、理解しているからと言って止められるものでもない。
譲歩すら許さぬ紅に、正一はそれ以上の説得をやめた。
どれだけの時間をかけようとも、彼女の心を動かすことは出来ないだろう。
自分には理解できないけれど、彼女は白蘭と言う存在そのものを慕っているのだ。
上司だから、ボスだから―――そんな肩書きすら、彼女には無用のもの。
「時間を取らせてすみませんでした」
「―――、…遅くならないようにね」
何かを言おうとした彼女だが、一度口を閉じ、別の言葉を紡ぐ。
そして、彼女は振り向くこともなく部屋を出て行った。
恐らく、彼女は今日のことを白蘭に伝えないだろう。
勘の良い彼は、すでに何かを察知しているかもしれないけれど、彼女を問いただす事はない。
まるで限界ギリギリまで息を止めていたかのように、大きく深呼吸をする。
正一は人のいなくなった部屋の中で、ドサリとソファーに座り込んだ。
最上階へと到着したエレベーターのドアが開く。
部屋の中に進み、自身のデスクに凭れさせるようにバッグを置く。
ふぅ、と息を吐いた。
「おかえりー」
「!?」
聞こえてきた声に、ビクリと肩を震わせる。
声の主が白蘭だと悟り、きょろきょろと部屋の中を見回すのだが、彼の姿はない。
空耳…だったのだろうか、と思ったところで、ソファーから手が生えた。
「ただいま戻りました。すみません。まだお帰りではないと思っていました」
「うん、だろうね。疲れた?」
ソファーに寝転がっていた所為で、彼の姿を見落としてしまったようだ。
すぐ傍らまで歩いてきた彼女の顔を見上げ、白蘭は首を傾げた。
相変わらず、考えの読めない笑みを浮かべている。
「いいえ、大丈夫です」
「そっか。今回の打ち合わせはどうなった?」
「問題なく進みました」
平然とした表情で嘘を吐く。
あの後相手のファミリーに連絡を入れたところ、正一がちゃんと打ち合わせを終えていた。
彼のことだから、内容は報告書を回してくれるだろう。
「そっか。紅ちゃんに任せて正解だね。あそこのボスとは気が合わないんだ」
「その様ですね。相手の方も同じ考えのようですけれど」
「だろうね」
クスクスと笑った彼が、ひょいと上半身を起こす。
そして、近くに立っている紅を手招きした。
疑問符を浮かべつつ近付いた彼女の腕を引き、膝に乗せるようにして背中からすっぽりと抱き締める。
一瞬、何が起こったのかわからなかったのか、沈黙する彼女。
「な―――」
「うん。充電中だから黙ってね」
片手で口を塞がれ、否応無しに黙ることになった紅。
僅かに頬を赤らめつつ、彼女は大人しくしていた。
白蘭にとっての充電だったのか、それとも紅にとっての充電だったのか。
真実を知るのは、本人達だけだ。
08.12.17