百花蜜

ピピッと電子音が鳴った。
音源は白蘭のデスクで、遠く離れた紅には聞こえなかったようだ。

「紅ちゃーん。レオ君が来てるみたいだから、迎えに出てくれる?」

そう言って声をかければ、彼女が顔を上げた。
よほど集中していたのか、焦点が合うまでに時間がかかっている様子。

「レオ君…?あぁ、レオナルド・リッピですか。わかりました」

そう言って彼女がカタンと席を立つ。
仕事中だからとかけていた眼鏡を外す仕草は、女性らしい柔らかさを秘めている。
それをデスク上にあるスタンドの中に放り込むと、ファイルを片手に白蘭の元へと歩いてきた。

「丁度良いので、そのまま前伝達係からの引継ぎを行ってきます。
戻りは1時間後を予定していますけれど、如何でしょうか?」
「駄目」

当然OKが出るものだと思っていた紅は、引継ぎが書いてある書類から顔を上げる。
は?と言いたげな彼女に対し、彼はニコニコと笑みを浮かべたままだ。

「引継ぎなんて、データと書類を渡して完了でしょ?」
「いえ、直接伝えなければならない項目も山ほどありますが」

そう答えれば、その書類がするりと抜き取られる。
デスクから持ち上げたペンを指の上でくるりと回してから、彼はそれに何かを書き記し始めた。
程なくして、はい、とそれを返される。

「これで30分」
「……………はぁ、わかりました」

無茶な、と言おうとした口を何とか一文字に結ぶ。
紅は深い溜め息の後、諦めたように頷いた。
彼がこうなってしまえば、何を言っても無駄だ。
明らかに不足が出るであろう引継ぎ内容を見下ろしながら、紅はそう思った。












ようこそ、と迎え入れた男は、まだ若い。
青年と言っても差し障りなさそうなこの男が、入江正一の推薦なのか。
よほど出来る男なのだろう―――そんな事を考えつつ、よろしく、と手を差し出す。

「白蘭様の秘書です。紅、と呼んでください」
「…あなたがミルフィオーレの姫ですか」

開口一番にそう言われ、は?と間の抜けた声が零れ落ちる。
彼…レオナルドは、照れたように頬を染めた。

「噂を聞きました。とても優秀な方で、白蘭様にいたく気に入られていると」
「はぁ…どうも」

噂を聞いたという彼に、なんと答えれば良いものなのだろうか。
的を射ない返事を返してから、彼女は思い出したように話題を変える。

「まず、入室方法の説明から入ります。
一度しかお伝えしませんし、メモを残すことは許しませんので、聞き逃すことのないように」

事務的な説明を始める彼女は、レオナルドの視線には興味がないようだ。
手元に視線を落としている彼女の横顔を見つめる彼の目に、先ほどの優男の雰囲気はない。
探るような鋭さを秘めた眼差しは、同胞に向けるものではなかった。




「―――以上です。何か質問は?」
「え、あ…いえ。今のところは…」
「そうですか。細かい仕事内容に関しては、追々説明していきましょう」

そう言って、仕上げとばかりに笑顔を浮かべる。
噂を聞く限りでは、彼女は相当優秀な人材らしい。
しかし、こうして言葉を交わしてみると、ごく普通の女性という印象を受ける。
ふと、レオナルドが壁にかけられた時計を見た。
丁度昼時を指している時計に、彼は思い立ったように紅の方へと視線を動かす。

「あの…もしよろしければ、この後食事でもどうですか?仕事の話などを教えていただけると…」

言葉半ばで、彼女が消えた。
いや、彼女自身がそこから立ち去ったわけではない。
彼女の意思とは無縁に、その身体が後方に引き寄せられたのだ。

「はい、時間切れー」
「白蘭様!?」
「遅いよ、紅ちゃん。3分オーバー」

後ろから肩を抱かれたかと思えば、覗き込むように白蘭の顔が迫ってくる。
紅は慣れた様子で腕にはめた時計を見下ろした。
確かに、約束の時間を3分ほど過ぎてしまっている。

「…申し訳ありません」
「うん。お詫びは美味しい珈琲でいいよ。先に戻って用意しておいて。すぐに行くから」

そう言って紅の肩を離すと、その背を押してエレベーターへと促す。
二・三歩進んだところで彼女は肩越しではなく、きちんと身体ごと振り向いた。

「レオナルドさん、先ほどのお話はまた機会があればと言うことで。失礼します」

言い終わるが早いか、彼女はくるりと踵を返す。
足早に立ち去る背中を見ると、急いでいるということはわかった。

「えっと…白蘭様、私も…」
「―――レオ君」
「は、はい!」
「ボスのものに手を出しちゃ駄目だよ」

にっこりと微笑んでいるのに、眼が笑っていない。
レオナルドは慌てた様子で首を横に振った。

「手を出すなんて、そんなつもりは…!すみませんでした!」
「…うん。その気がないなら構わないけどね。傷一つも許さないから、覚えておいてね」

そう言うと、彼は紅とは対照的にのんびりとした足取りでエレベーターの方へと向かう。
歩いていくその背中が鉄の箱の中に乗り込み、閉じたドアにより見えなくなった。
ぽつんとフロアに残されたレオナルドは、ふっと口角を持ち上げる。

「…姫…か。随分と、大切にされているらしい」

予想以上ですよ、と呟く。
ひとしきり小さく笑ってから、彼は仕事を片付けるべく歩き出した。











どうぞ、と湯気立つカップを白蘭の前に差し出す。
そのまま引っ込めようとした手は、彼のそれにより引き止められた。

「白蘭様?」
「…レオ君、使えそう?」
「まだ仕事の様子を見ていないので何とも言えませんけれど…印象は悪くはありませんね」

彼の様子を思い出しながらそう答える。
紅の答えに白蘭が沈黙するのを見て、何か変なことを言っただろうかと思った。

「まぁ、わからない事だらけだろうから、適当に教えてあげてね」
「もちろんです。あの、白蘭様?」
「うん?」
「…いえ、何も…。失礼いたしました」

今の反応の真意を問おうとして、やはり首を振る。
彼は気にした様子もなくカップを持ち上げた。
そんな彼を見つめ、紅は先ほどの会話からその意味を見出そうとする。
しかし、情報は複雑に絡み、本性を現してはくれなかった。

08.07.09