百花蜜
ヒールを鳴らし、慌ただしく廊下を走る。
本来ならば、それを諌めるべき立場の人間なのだが、今はそんなことを気にしている余裕はない。
早く、一秒でも早く。
心ばかりが、そう焦る。
もつれそうになる足を叱咤し、エレベーターへと駆け込んだ。
最上階のボタンを押してから、即座にドアを閉じるボタンを押す。
殊更にゆっくりと閉じているような気がして、紅の焦りを助長した。
重力に逆らう、独特の感覚はいつまでも慣れることはない。
ぽーん、と言う音がして、鉄の箱が目的地へと到着したことを教えてくれた。
開きかけたそこから飛び出し、真っ直ぐに廊下を突き進む。
目的の部屋は、すぐそこだ。
「白蘭様!!」
半ば飛び込むようにしてドアを派手に開く。
そのままの勢いで、利き手で持っていた銃をバッと部屋の中に向けた。
最悪の光景も予想していた紅は、視界の中のそれを見て、目を見開く。
まるで、足を床に縫い付けられたようだ。
「白蘭…様…?」
頼りなくその名を呼べば、その部屋の唯一の人物が振り向いた。
その顔には、いつもの感情の見えない笑みが浮かんでいる。
「どうかした?紅ちゃん」
「白蘭様…」
「うん」
「あの…ご無事で…?」
あれ?と心中で首を傾げる彼女に、白蘭は「失礼だなぁ」と笑う。
「まるで、無事だと変みたいな反応だね」
「い、いえ!まさか!」
とんでもない、勢いよく首を横に振りながら、紅はそう言った。
しかし、この状況は何なのだろうか。
優雅に足を組む白蘭を前に、脳内で疑問符を積み重ねる。
「どうかしたの?」
「どうもこうも…私の回線に、警報が流れてきたんです。この部屋に侵入者だと…」
今から1分前、作業をしていた紅の専用回線に警報が流れ込んだ。
突然のそれは、彼女を驚かせるには十分だった。
何しろ、その内容が侵入者によるもので、場所は最上階―――つまり、この部屋だったのだから。
そこからの紅の行動は早かった。
「侵入警報が流れた?」
「はい。誤作動でしょうか…」
「違うよ?」
状況をみる限りでは、侵入者の形跡はない。
この部屋の主である白蘭もいたって平然としており、侵入者との一戦後とは考えにくい。
誤作動を考えた紅に、彼はにこりと微笑んだ。
「僕が流した警報だからね。正常正常」
「はぁ…。……………はぁ!?」
一度は頷くように答え、間をおいてから状況を理解した。
思わず、上司に向けるべきではない声を発してしまう。
「まさか、こんなに早いとは思ってなかったけど…優秀だね、紅ちゃん」
「な、な…じゃあ、あの警報が白蘭様のお遊びですか!?」
「失礼だなぁ。真面目な呼び出しだよ」
「どこの世界に呼び出しに警報を使う人がいるんですか!」
思わずそう叫んでしまってから、相手がボスだということを思い出す。
我に返る紅に対し、白蘭はにこりと微笑み、「ここに」とあっさり答える。
「紅ちゃんは、普通に呼び出したんじゃ来てくれないからね」
「あ、当たり前です!白蘭様の呼び出しに付き合っていたら、仕事が進まないじゃないですか」
事あるごとに…いや、事がなくても呼び出される日常。
初めの頃こそ、健気なほどに毎度毎度最上階へと足を運んでいた。
仕事が溜まる一方だと言う状況、小さすぎる用件。
いい加減堪え切れなくなった紅は、上司に一言添えて、彼からの呼び出しに応じなくなった。
「あぁ、もう…信じられない…」
だからと言って、これはないだろうと脱力する。
あの緊張感と焦りを返してくれ。
溜め息と共に、手に持ったままだった銃を太股のホルダーへと押し込んだ。
「―――ご用件をお願いします」
「紅茶がね、飲みたいんだ」
ビシィッと言う音が聞こえそうだった。
紅は口元を引きつらせることもなく、営業スマイルを浮かべる。
「白蘭様。私の役職を覚えていただいていますか?」
「ボス付きの秘書だね」
「ええ、私自身もそうだと記憶しています。もちろん、それも仕事の一環だと認識していますけれど…。
いくらなんでも、1時間に6回以上も呼ばれれば、誰でも一言言いたくなると思いませんか?」
「紅の淹れた紅茶が飲みたいんだ」
にっこりと笑顔を崩さずにそう言う白蘭。
紅は、ここへ来て何度目かの溜め息を吐きだした。
こんな時だけ真剣な声で紅と呼び捨てるなんて、ずるいと思う。
部屋に設置されているキッチンのほうへと歩き、手早く準備をする。
数分後、仄かな香りと共に、白蘭の前に陶磁器のカップが置かれた。
「ありがとう」
お礼を忘れることなくそれに手を伸ばす彼を見て、紅はトレーを抱え直してから口を開く。
「白蘭様…私は、あなたの秘書としてはお役に立てませんか?」
「んー?そんな事はないよ。十分」
「では、何故…これでは、秘書の仕事が滞ってきてしまいます。いっそ、給仕係と任命して頂いた方が…」
「でも、紅ちゃんはそれに納得できないでしょ?自分のスキルを生かしたい性格だし」
けろりとそう言ってのけるボスに、紅は軽い眩暈を覚えた。
この人に何を言っても無駄のような気がする。
「ねぇ、紅ちゃん」
「はい。何ですか、白蘭様」
最早、どうにでもなれ、とでも言いたげな投げやりな表情でそう答える。
そんな彼女に、彼は変わらぬ笑顔でこう告げた。
「秘書室って必要だと思う?」
「…なければ私の仕事場がなくなりますね」
「でも、紅ちゃんって僕の秘書だよね。別に秘書室を設ける必要はないと思うんだけど―――どう?」
「………つまり、ここで仕事をしろと?」
彼の言いたいことを口に出せば、よく出来ました、とばかりに頭を撫でられる。
いつの間に隣に来ていたのかは知らない。
先ほどまで彼が座っていた立派な革張りの椅子が、名残を残してほんの少しだけ回る。
「…仕事の荷物、かなりありますけど…」
「構わないよ。ここ、無駄に広いし」
「四六時中私が監視することになりますよ」
「うん、いいよ。紅ちゃんだから」
「…サボらせませんから」
「と言いつつ、ちゃんと休憩はさせてくれるでしょ?」
優しいよね、と微笑まれ、紅は深く溜め息を吐き出した。
この男には、何を言っても無駄のようだ。
「………こんな風に呼び出されるのは心臓に悪いですしね…」
「そうだね。紅ちゃん、かなり必死の表情だったし」
そう言って、彼が操作したパソコンに映し出された映像に、紅の冷静と言う名の仮面が音を立てて崩れた。
この部屋に駆け込んできた時の自分の表情など、改めて見せられずとも自分が一番よく理解している。
「中々見られないよね、紅ちゃんのこんな表情。そんなに心配だった?」
「消してください、そんなもの!」
彼がパソコンを離れると、即座にその前へと滑り込む。
カタカタとキーを操作する紅に、彼は後ろから声をかけた。
「消さないでね。これ、ボス命令」
職権濫用!!と言う声にならぬ声が、紅の中を走り回った。
明日からはこの人にいいように扱われる日々が来るのだろうかと思うと、今日までの日々が愛しく思えてくる。
感情を落ち着かせるように深呼吸をしてから、指を無理やりキーボードから引き剥がした。
「って言うか、明日からあの秘書室なくなるんだよね」
「せめてもっと早くに教えてくださいっ」
08.06.23