Bloody rose
朝、目を開けた時の喪失感。
あぁ、全ては夢だったのかと―――突きつけられる現実に、愕然とする時間だ。
ゆっくりと時間をかけて開いた視界は、いつもと何一つ変わる事はなく。
故に、やはり…と思う。
あれは夢だったのだ、彼が帰ってきたなんて。
そんな事を考えながら、何気なく横を向いて―――心臓が、飛び出すかと思った。
叫ばなかった自分を褒めてあげたいと思う。
―――夢、じゃなかった…。
込み上げた涙を隠すように、シーツ越しに膝を抱く。
肌触りの良いそれが、涙を全て吸い取ってくれた。
どのくらいの時間そうしていたのか。
ふと、顔を上げた彼女は剥き出しの肌に寒さを感じる。
ベッドから抜け出して、近くの椅子にかけてあった自分のシャツを羽織った。
そして、ベッドを振り向くことなく、まずは頭を起こそうとシャワールームに飛び込む。
手早くシャワーを済ませ、改めてベッドを見た。
やはり、彼がいる。
うつ伏せで、シーツから肩を乗り出すように眠る彼。
枕の下に差し込まれた腕や、肩には、沢山の傷跡が見えた。
傷跡は生々しく、もしかすると手当てを受けていないのでは、と思った。
そう考えたところで、彼の姿が氷付けにされた時とまったく同じであった事を思い出す。
予想が正しければ、彼はそのままここに来てくれたのだろう。
コウは無音で棚の救急箱をベッドに運んだ。
脱脂綿を消毒に浸し、液が垂れてしまわない様に軽く搾る。
彼の背中に掛かるシーツを腰の辺りまで引き下げてから、肩の傷跡にそれを押し当てた。
「―――…冷てぇ」
枕に吸い込まれそうな音量で、そう呟いた。
何となく、その身に纏う空気で起きていると感じていたから、驚いたりはしない。
「すみません。常温ですけれど…肌が、少し熱を持っているようですね」
冷たいと言われようが、一度たりとも手を止めることなく、背中と肩の傷の手当をする。
一旦彼女が離れると、次を用意している間に彼が身体を起こした。
「…おはようございます」
「………あぁ」
手当てをしますね、と顔の傷に消毒液を染み込ませた脱脂綿を押し当てる。
黙々と作業を続け、彼もまた、何も言わず大人しく手当てを受けていた。
「―――…あなたに、話さなければならない事があります」
首筋へと手当ての手を移動させたところで、コウは漸くそれを切り出した。
目を合わせる勇気がない。
鎖骨辺りを睨むように見つめた。
「―――あのガキの話か」
「…はい」
どう伝えればいいのだろうか。
第一声に躊躇うコウの心中を見透かしたのか、彼の方が口を開く。
「お前が生んだのか?」
それは、直球な質問だった。
しかし、逆に遠回しな質問よりは良かったのかもしれない。
コウは、そうです、と答えた。
―――さぁ、彼はどんな反応を見せてくれる?
緊張で、指先が震えた。
「あの身体捌き―――教えたのはルッスーリアか」
「え?…えぇ…その通り、ですけれど…」
何故、今ここでその話が出るのか。
先程までの緊張がどこかに飛んで、ただただ呆然とする彼女。
「リーチに差がある接近戦はスクアーロの方が得意だ」
奴に教えさせろ、と言う彼。
コウはそれを聞きながら、自分のいいように解釈してしまっているのだろうかと思う。
まるで、あの子が存在する事が、当然であるかのような発言。
いくら待とうとも、彼の口から“何故”と存在の理由を問う言葉が飛び出す事はなかった。
「どうして…何も、聞かないんですか?」
コウの方が耐え切れなくなって、気が付けばそう問いかけていた。
父親は誰なのか。
どうして勝手に生んだりしたのか。
質問しようと思えば、いくらでも出来るはず。
しかし、一切それを口に出さないのは、興味はないと言うことなのか。
XANXUSの答えを恐れるように、コウは続ける。
「妊娠を知った時、あなたは既に氷の中でした。だから私は…勝手に、生む事を選んだ」
大人社会で生きていようと、まだ大人ではなかった。
そんな自分が子供を生み、育てるという事に対して、不安がなかったわけではない。
それでも、寧ろ不安だらけだった自分の背中を押したのは、お腹の子供がXANXUSの子であるという事実。
彼の子供を殺せない―――だから、生んだ。
そして、本当に帰って来る確証もないXANXUSを待ちながら、ただひたすら手探りに育てた。
「お前は何を聞いて欲しいんだ」
その声には、どんな感情が含まれていたのだろうか。
コウはただ、その言葉に首を振った。
「…すみません。全ては…私が勝手に行動しただけ」
何故、と問う立場ではないのだと思い出した。
俯き、手を止めた彼女を見て、XANXUSははぁ、と溜め息を吐き出す。
「―――ガキが出来たから生んだ。それだけじゃねぇのか?」
それ以上に何が必要なのだと問う彼。
コウは俯いたまま口を開いた。
「父親があなたではないと…そう、考えたりはしないのですか?」
そんな事はありえない。
けれど、問わずにはいられなかった。
XANXUSが答えるまでの時間が、とても長く感じた。
「可能性があるのか?」
「ありません!けれど…」
「…なら、無意味だ。第一………あれだけ俺の血が濃く現れていて、疑う必要があるのか?」
XANXUSの言葉に、コウは彼の事を思い出す。
そう、何の因果なのか―――生まれてきた息子は、成長と共にXANXUSの面影を濃くしていった。
ガキの目つきじゃねぇぞ、と呟いたスクアーロの言葉を否定できなかった事を思い出す。
寧ろ、自分が生んだと言う事実がなければ、彼女の方がまさかと疑いたくなるほどに。
そんな事を考えながら、コウは漸く肩の力を抜いた。
彼は、目の前にある事実を現実として受け止めてくれている。
コウは道具を机の上に置いた。
そして、ベッドに座る彼の前に移動し…そっと、額を彼の胸に預ける。
「―――ごめんなさい」
許されようとは思っていなかった。
どう思われようと、コウ自身が生みたいと思ったから。
彼は何も言わない、何も責めない。
謝罪は、生んだ事に対するものなのか、疑った事に対するものなのか、それとも。
XANXUSが、無言でコウの後頭部を引き寄せる。
その指で耳元の髪を掻き分け、耳に吐息を感じた。
条件反射的に身を強張らせるコウ。
「―――――」
コウはそのままの目を見開いた。
何が、聞こえたのか。
聞き間違いでなければ―――“悪かった”と。
そう聞こえたと思う。
彼が、XANXUSが、謝罪―――?
スクアーロにでも話せば、顎を落としそうだと場違いな事を考える。
顔を上げようとしても、押さえつける手に阻まれて動けない。
どうやら、見るなと言う事らしい。
早々に諦めたコウは、そのまま彼に凭れる様にして瞼を伏せた。
彼がそう言ってくれるのならば、もうこれで終わりにしよう。
8年間、ずっと胸に抱えてきた不安にも似た罪悪感が今、漸く昇華された気がした。
09.10.25