Bloody rose

風がざわめく夜だった。
ベッドサイドの明かりで本を読んでいたコウは、木々の揺れる音に顔を上げる。
酷く、心が落ち着かない夜。
カーテンのかかった窓を見つめ、それから少し心配そうに隣の部屋へと続く扉を見る。
嵐と言うわけでもないし、大丈夫だろう。
そう結論付け、集中できない本に栞を挟んで閉じ、ベッドサイドの明かりを消す。
おやすみなさい、と誰に言うでもなく、心の中でそう呟いた。










完全に意識がなかったわけではない。
ただ、この数年間の記憶が殆どないことだけは、確かな事実だった。
初めの一年の間に、2度ほど訪れた彼女が泣いていた事だけ。
理由も、彼女が自分に向かって紡いでいたであろう言葉も、覚えていない。
いや、聞こえていなかったのだ。
厚い氷は、彼女の声を遮り、その表情しか見せなかった。
一人の間、じわり、じわりと積み重ねた憎悪の感情。
その片隅で、常に抱いていた焦燥感。
それは、待てと言い残した彼女に対するものだったような気がする。

自分を解き放ったであろう、9代目の姿は既になく。

―――XANXUS…お前が道を間違わない事を祈っている。

身体が氷から解放されたものの、8年間のブランクは大きい。
そう言い残した9代目に、ただの一言さえも返す事ができなかった。
ギリッと奥歯を噛み締めて数十分―――漸く、身体が動いた。



手当ても受けないままに、目に付いた車を飛ばしてやってきたヴァリアーのアジト。
鍵をつけたまま車を放置して、記憶を頼りに廊下を歩く。
夜に帰る者もいるために、建物に鍵は掛かっていない。
侵入されたとしても、中にいるのは特殊暗殺部隊の人間ばかりだ。
迂闊に踏み入れたが最後、この建物から出ることなどできはしない。

深夜なのか人の気配はない。
何度か階段を上り、目当ての部屋を見つけた。
建物内は多少変わっていたようだが、今の彼の興味を引くようなものは何もない。
躊躇いも何もなく、バンッと扉を開く。
ここまでの廊下はそれほど明るくはなく、暗闇に対して慣れた目で室内を見回した。
見覚えのない扉が一つ。
位置的に、隣に繋がるのだろうと考えながら、ベッドの方を見る。
そこには、ベッドの上で身体を起こした彼女と、自分を睨みつける冷たい銃口があった。
彼女―――コウは、無礼な侵入者が誰なのかを理解し、驚きに表情を染める。

「…XANXUS…様…?」

夢を見ているのだろうか。
そんなくだらない事を考えている顔だ。
震える声を聞きながら、大きな歩幅で彼女へと近付く。
ベッド脇まで近付いた彼は、何も言わない。
無言で自分を見下ろす彼を、コウは信じられない様子で見つめた。
彼の手が、ゆっくりと伸びてくる。
その時―――例の扉から、勢いよく何かが飛び出してきた。

「近付くな!!」

一瞬のうちに距離を限りなくゼロに近付け、XANXUSを蹴り上げる。
しかし、8年間のブランクがあろうとも彼は彼だ。
攻撃が届く前に無駄のない動きでそれを避ける。
息つく暇もなく、鋭く繰り出される二撃、三撃を軽く往なし、四度目のそれで首を掴んで壁へと押し付けた。
自分が掴んだ相手が誰なのかを確認もせず、もう片方の手に憤怒の炎を宿す。

「消えろ」

自分のものとも思えぬ低い声の原因は、何に対する苛立ちだったのだろうか。

「やめてください、XANXUS様!!」

あと一瞬、炎を消すのが遅かったら―――憤怒の炎が彼女の身体を貫いただろう。
手が彼女の身体に触れる直前、ギリギリの所でそれを掻き消した。

「お願いです。…殺さないで」

未だにXANXUSが首を掴む者と、彼の間に滑り込んだ彼女。
XANXUSは無言で彼女を見下ろした。
どれくらいの間、凍らされていたのだろう。
彼女の顔からは幼さが消え、大人と評するに差し障りなく成長していた。
過ぎるほどに冷静で、自分に忠実だった彼女が、声を震わせて懇願する。
気を削がれた―――XANXUSは、手を緩めた。
ドサリと床に崩れ落ちる音を聞き、彼は漸く、彼女の向こうの相手を見る。
それは、まだ十にも満たない子供だった。
げほ、と首を押さえて咳き込む様子を見て、コウがその子供の背を撫でる。
その手馴れた様子が、何故か酷く苛立った。








「おい、大丈夫か!?」

騒がしくした音に気付いたのだろう。
扉をぶち壊す勢いで飛び込んできたのは、かつて彼の下にいた幹部の連中だ。
いくつか足りない顔もあるようだが、さほど能力が高くはない連中ばかり。
恐らく、ここ数年の間に死んだのだろうと考える。
駆けつけてきた彼らは、まずコウの無事に安堵する。
そして、その傍らに居たXANXUSを目にして、各々が自由に驚きを表した。

「XANXUS…か?」
「カス、このガキを連れて出ていけ」
「お、おい!まずは話―――」

8年ぶりに顔を見たXANXUSは、やはりXANXUSだった。
言葉を続けようとしたスクアーロを一睨みで黙らせ、無言で行動を促す。
このままここに留まれば、身の危険を感じた。
スクアーロはちっと舌打ちをしてから、コウの所へと近付く。
そして、戸惑いを浮かべる彼女の腕から子供を預かった。

「明日は話を聞かせろぉ」

ひょいと子供を腕に抱きあげ、彼はXANXUSを一瞥してから部屋を出て言った。
そして、ドアの所に居る他の幹部に何かを告げる。
開かれていたドアを閉じる役目を買って出たルッスーリアは、意味深い視線を彼女に残し、それを閉ざした。














残されたコウの心中は忙しい。
無理はない―――前触れも何もない、突然の再会だったのだから。
8年ぶりの彼は、凍っていたにも関わらず、肉体的には成長しているようだ。
青年言うよりは大人の雰囲気を感じ、自然と鼓動が速くなる。
閉じられたドアを見つめるその背中は、何を考えているのだろうか。
コウはただ無言で、彼をその目に焼き付けるように視線を送る。
それに気付いたのか、去った気配に満足したのか。
彼が振り向くと、それに合わせてビクリと肩を揺らすコウ。
何も言わず、一歩で彼女との距離を詰めたXANXUSは、ひょいと彼女を抱きあげた。

「XANXUS様…?」

驚くと言うよりは戸惑う彼女の声を聞きながら部屋の中を移動する。
頭の整理が出来る前にベッドにおろされ、真上から彼に見下ろされた。
8年の間に伸びた髪に、彼の指が触れる。

「…伸びたな」
「XANXUS様も、伸びましたよ」

切らないといけませんね、と告げれば、彼はほんの少し笑みを浮かべた。
彼とは思えない優しい表情にドクンと鼓動が跳ねる。
しかし、その後にやってきたのは、酷く落ち着いた感覚だった。
安心、と言うのだろうか。
あの冷たい壁に阻まれる事が怖くて、彼の現実を知る事が怖くて。
忙しさを理由にあの場所を避けるようにしてきた8年間。
彼がいない現実に疲弊していた彼女の心は、とても素直にその存在を受け入れた。

「―――お帰り、なさい」

視界は涙で歪んでしまって、満足に彼を見つめる事が出来ない。
彼の頬に手を伸ばし、手の平でその体温を感じて―――縋るように、その首に腕を回した。

「私…あなたに話さなければならない事が、沢山あるんです。でも―――」
「明日聞く」

コウの言葉を代弁するように、耳元で短く告げられた。
彼女は彼に抱きついたまま、僅かに首を頷かせる。
唇に落とされたキスが、徐々に下がり、頬を伝ってから首筋へと移動する。
首筋に感じた彼の体温が懐かしく、涙がこめかみへと流れ落ちた。

09.10.23