Bloody rose
ゆりかごから、もうすぐ2ヶ月―――その日は、酷く気分が悪かった。
ずっと無理をしていた事はわかっていたから、それが身体に出てしまったのだろうと思う。
でも、倒れるわけにはいかない。
今のコウにはゆっくりと眠る暇などどこにもないのだ。
立ち上がった瞬間に眩暈を覚え、思わずデスクに手をつく。
―――貧血、だろうか。
視界の蒼さからそれを悟り、ゆっくりした動作で椅子に腰掛ける。
手にしていた書類をデスクの上に投げ出して、空いた手で顔の上半分を覆った。
瞼越しの光が消え、少しだけ頭が楽になる。
「コウ、入るわよー」
コンコン、とノックの音と声。
続いて、ドアが開く音が聞こえた。
ルッスーリアが帰ってきたらしい。
彼から報告書を受け取って…休んでもらうのは、次の任務の話をしてからだ。
そうしなければいけないと思うのに、身体が動こうとしない。
「…コウ?」
こちらを向かない彼女を訝しんだのか、ルッスーリアの足音が近付いてくる。
すぐ傍に彼が立つのを気配で感じ、コウは手を退けた。
時間をかけて瞼を開いたけれど、視界に差し込んでくる光は眩しすぎる。
即座に目を細めた自分を見下ろすルッスーリア。
「…ちょっと、あなた酷い顔色よ」
「…貧血みたい。少し休めば治るから…大丈夫よ」
背凭れにしっかりと背中を預け、ルッスーリアに向かって手を差し出す。
彼は納得していない様子ながらも、とりあえず報告書を渡してくれた。
それにサッと目を通してから、デスクの端に積んでいるファイルを手に取り、彼の次の任務の書類を取り出す。
「………あなた、朝食は食べたの?」
「…そう言えば、忘れていたわね。最近食欲がなくて」
「そんな事をしていたら体調を崩すのは当たり前よ!フルーツ程度なら食べられるでしょ!」
持ってくるから大人しくしていなさい、と強めに言い残して、慌ただしく部屋を出て行く彼。
渡そうとした書類が行き場を失う。
残されたコウは、小さく苦笑を浮かべた。
そして、自身の体調の悪さに疑問を抱く。
「…少しくらい食べなくても体調を崩したりしないはずなのに…」
任務によっては、満足に時間を取れない事もある。
食事を抜いたり、一週間寝なかったくらいでは体調を崩さない程度には身体が強くなっているのだ。
少ないとは言え昨日の昼食を取った覚えがあるから、1日抜いたわけではない。
この不調は、コウにとっては異常だった。
貧血が収まり、とりあえず原因を考えていると、ルッスーリアが戻ってくる気配がした。
ノックもなしに開かれたドアの方を見る。
流石にある程度考慮されたのか、彼の手にある皿はまだ常識の範囲の大きさだった。
見るともなしに持っていた書類を奪われ、ドン、と目の前にガラス製の皿が置かれる。
美しく彩られたフルーツの盛り合わせは、フォークで食べられるサイズにカットされている。
「ありがとう」
「それを食べたら、少し仮眠を取りなさい。どうせ、夜も殆ど寝ていないんでしょう?」
「昨日は寝たわよ」
「どのくらい?」
「…1時間くらい」
答えるのを躊躇ったのは、彼の反応が手に取るようにわかったからだ。
息を吸い込んだルッスーリアに合わせ、そっと耳を塞ぐ。
「そんなの寝たうちに入らない」や「お肌に悪いわ」などと言った言葉が声高く叫ばれる。
それが落ち着くのを待って手を下ろし、フォークを手に取った。
口に含んだそれはひんやりとして瑞々しく、つい先ほど用意されたばかりだと言う事がわかる。
新鮮なそれを租借し、飲み込もうとした、その時―――
「――――っ」
「コウ?」
込み上げる感覚に、思わず口元を押さえる。
ガタンと派手に椅子を転がして、部屋から直接繋がる洗面所へと駆け込んだ。
「ちょっと…コウ、やっぱり体調が悪いのよ。医務室で薬を貰った方がいいわ」
落ち着いた頃になって、ルッスーリアが顔を見せた。
タオルと、グラスに入った水を持ってきてくれる。
そんな彼に礼を言ってから身体を起こしたコウは、まだ残る気分の悪さの名残に、タオルを口元に当てた。
「…そうね。薬を貰って…今日は休むわ」
無理をして倒れてしまっては元も子もない。
恐らくは過労とストレスによるものだろうけれど、少なくとも薬は必要だと判断した。
心配そうな彼に大丈夫だと告げ、デスクに戻る。
必要なものを準備してから、後ろをついてくるルッスーリアを振り向く。
「疲れているところ申し訳ないんだけど、今日の報告書だけ受け取ってくれる?ソファーで休んでくれていいから」
「ええ、わかったから、早く行きなさい」
とにかく医務室へ向かわせようとする彼。
こう言ってくれているのだから、とこの場を任せる事にした。
やや不安な足取りで部屋を後にするコウを見送ったルッスーリアは、一人溜め息を吐き出す。
「まったく…あの子は。あの子に何かあったら、ボスが帰ってきた時に怒られちゃうって言うのに」
大体、彼女は一人で抱え込みすぎなのだ。
ぶつぶつと呟きながら、とりあえず整頓でもしておこう、とデスクに向き直る。
「最近任務に出ていなかったから…身体が鈍ったのかしら」
デスクワークばかりだと駄目ね、と呟く。
今までは少し忙しいくらいでも平気だったが、このところ慣れないデスクワークが続いている。
最近は随分慣れてきたが、それでもまだ、身体を動かす任務の方が楽だと思える。
こんな事をしている場合じゃない。
パンッと両頬を手の平で包むように叩いてから、医務室へと向かう足を早くする。
まずは薬を貰って、それから自室で身体を休めよう。
そうすれば、またきっと頑張れる。
明日には体調もマシになる―――この時はまだ、それを信じて疑わなかった。
09.10.11