Good morning
--黒揚羽 番外編
温かい何かが頬に触れるのを感じて、紅の思考はゆったりと覚醒への階段を上りだす。
頬からその温もりが離れると、今度は頭を撫でられる。
その動きに合わせるようにゆっくりと、彼女は目を開いた。
「おはよう」
そう言って真上から声を掛けられ、紅は次第にクリアになってくる視界でその主を捉える。
彼の姿をその目に映すのは、酷く簡単な事だった。
ただ目を開き、そう広くは無いが狭くも無い視野の中から彼と言う人を把握する、それだけだ。
しかし、紅の思考はその簡単さとは打って変わって混乱していた。
「ひ、ばり…さん?」
どこか問いかけるように語尾を持ち上げてしまったのは、何も彼と言う人を疑ったからではない。
自分が彼を見間違えるとは思わないし、何より傍に居ても寝ていられるのは彼くらいだ。
では、何故確認するような声になってしまったのか。
その理由も、そう難しいものではなかった。
「僕以外に見えるほど、視力が落ちた?」
「いえ、両目とも正常に2.0です」
これに関しては自信がある。
お洒落などで眼鏡をかけることもあるが、それは視力云々の問題からではない。
何より、そう言う時にかけるのは、大抵色つきのサングラス系のものだ。
「…今何時ですか?」
「さぁ」
そう答えながら、雲雀は腕を伸ばして脇においてあった携帯を彼女の視界に運ぶ。
それを受け取り、パカッと開いてディスプレイに表示されている時刻を見た。
自分が知っている時間から、優に3時間ほど経っている。
「うわ…思った以上に寝過ごしてますね…」
午後からは授業に出るつもりだったんですけれど、と彼女は呟く。
そして、携帯を閉じたところで、はた、と今の状況に気付いた。
未だに身体を起こしていない自分は、記憶違いでなければソファーに寝ていたはずだ。
彼の向こうに天井が見えていることから、それはまず間違いないだろう。
そう、天井の手前に、覗き込まれるようにして―――
脳内が徐々に情報を整理していき、その答えに辿り付く。
頬に熱が集まってきているのを自覚せずにはいられなかった。
「…な、何でこんな事に…」
「やっと目が覚めたらしいね」
寝起きがあまりよろしい方ではないと知っていた彼は、漸く状況を把握した紅に対し、声を出さずに笑う。
そして、すぐにでも飛び起きそうな彼女の額に手を乗せた。
この状況で飛び起きられては、素晴らしい勢いで頭突きされかねないからだ。
紅は唐突に、その額に添えられた手が、先ほど覚醒へと導いてくれた温もりだと悟る。
頬と言わずに、耳まで熱い。
「あ、の…!手、退けてください…っ」
起きられませんから、と必死に訴えるも、彼の視線はすでに彼女ではない方へと向けられている。
聞く耳持たず、と言うのが一番近い表現だろうか。
彼が身体を起こしているのだから、まずぶつかる事はない。
それなのに、起きられない。
一刻も早くこの恥ずかしいことこの上ない格好から逃れたい紅は、とうとう強硬手段に出た。
力など殆どかけずにただ乗せているだけの手を退けて、何かを言われる前に身体を起こす。
そして、寝苦しいからと解いていたリボンをつけながら制服の皺を伸ばす。
そこまでに要した時間は、いつもの寝起きからは考えられないような早さだった。
そんな彼女の動きを眺めていた雲雀も、飽きたのか手元の生徒資料に視線を落とそうとしている。
「…理由」
「?」
「理由、聞いてもいいですか」
紅の声に彼の目が再び彼女を映す。
問いかけという形を取らなかったのは、彼が答えてくれると言う確信があったからだろうか。
「何の理由?」
「膝枕ですよ!何でこんな事になってるんですか!」
授業中であったならば、もしかすると廊下を響いていたかもしれない。
ふと頭の片隅でそんな事を考えるが、応接室の壁は分厚いんだったと思い出す。
口に出してしまえば恥ずかしさは倍増し、睨むように向けた視線も下に落とすしかない。
気が強いのか、弱いのか…面白い反応ばかりだ、と雲雀は思った。
声に出して笑わないのは、そうしてしまえば彼女が怒り出すとわかっているからだろうか。
「紅が放さなかったからだよ」
「放す…?」
「これを取ろうとしただけだったんだけどね」
ひょいと持ち上げたそれは、よく見れば彼が先ほど読もうとした生徒資料だ。
自分の記憶が確かならば、あれは自分が寝る前に読んでいたもののはず。
そこまで考え、紅は一つの考えに至った。
つまり―――
「私が原因ですか!?」
「そう」
きっぱりと答えてくれた彼に、紅は穴があったら入りたいと言う心境をいやと言うほど味わった。
放さなかった、と言うのは恐らく学ランの裾の事だろう。
長時間不自然に握られていたらしい、少し皺の入った部分が目に入る。
動くに動けなくなった彼は、その手を無理やりに解かなかった。
例え彼の気まぐれであったとしても、膝枕してもらったと言う事実は変わらない。
人の気配に敏感な自分が、同じ室内に人が居て寝られると言うのも珍しい。
それだけでなく、誰かに触れた状態で熟睡など―――ファミリーの皆が聞けば、翌日の天気を案じるだろう。
「……………えっと…」
「……………」
「………ご迷惑をお掛けしました」
とりあえず、頭を下げておく。
彼が無理やりに動かなかったとは言え、数時間拘束してしまったと言う事実は変わらないのだ。
「迷惑ならやってない」
短い返答。
しかし、それは確かに彼の言葉だった。
「…お願いですから、もう少し私の心臓を労わってください」
「柔な心臓を鍛えてあげてるんだよ」
「心の底から遠慮させてください。心臓がもちません」
じりじりと後退して行く彼女に、彼は心中で苦笑した。
この反応が面白いからやめられないのだと、理解すればいいものを。
そう思うが、やはり自身の楽しみが優先なのでまだ教えるつもりは無い。
少なくとも、彼女がそれに気づく時まで…その事を彼が告げる事は無いだろう。
「思う存分寝たんだから、これ頼んでおくよ」
「…何ですか?」
「今度の委員会の予算案。面倒だから全部任せる」
「別に構いませんけど…臨時収入ばっかりの風紀委員に予算なんて必要ありませんよね…」
後半部分は、半ば呟きのような小さな声だ。
何を言おうが、結局やる事は変わらない。
それを理解している彼女は、後ずさりをやめて一歩ずつ彼に近づいた。
いつもよりは少し赤いとは言え、頬の熱は殆ど引いている。
話がそう言う方向にさえ行かなければ、平静を保つことは出来るのだ。
ソファーの後ろにあった棚から必要な資料を抜き取ってくると、彼の向かいに座る。
そうして作業に集中しだせば、彼女の意識は真っ直ぐそれだけに向けられるようになった。
少し前の静けさが、再び応接室内を包み込む。
ふと、窓から差し込んでくる夕日に瞼を刺激される。
いつの間に閉じていたのか…そう思いながら持ち上げれば、沈み行く夕日が建物の際に見えた。
気がつけば、眠ってしまっていたらしい。
頭の中を整理しながら身体を起こすと、パサリと何かが上半身から滑り落ちた。
ソファーの足元に落ちたそれは、自分の物よりも一回り小さな学ラン。
これの持ち主など考える必要も無い。
不意に、彼は視線を向けた先―――テーブルの上に置かれたメモを見とめる。
指先でそれを拾い上げ、書かれている内容を読み取った。
『生徒間で揉め事があったらしいので草壁さんと行って来ます』
その下に書かれた時刻は、今から10分ほど前だ。
彼女の処理の時間を考えれば、そろそろ戻ってくる頃だろう。
そんな考えを読んだかのように、応接室のドアが静かに開かれる。
音が殆どしなかったのは、寝ているかもしれないと言う彼女の配慮だろう。
彼女はソファーからこちらを見ている自分に気付き、そっと微笑んだ。
「おはようございます、雲雀さん」
もう夕方ですけれど、と笑う彼女の表情を、夕日の赤が染める。
06.12.17