My Home
「つ、かれた~…!」
海外旅行客の多さを侮っていた。
紅は、身体に押し寄せる疲労感に、それを痛感する。
数ヶ月ぶりの、懐かしい日本の我が家。
自室は、玲が前もって掃除や換気をしてくれていたらしく、それほど気にならない。
お日様の匂いのする柔らかいベッドに座り、ぐるりと部屋の中を見回す。
数ヶ月前までは、ほぼ毎日を過ごしていた部屋。
懐かしいと感じる気持ちの中に、ほんの少しだけ、違和感を覚えた。
「…あっちが、我が家になってるって事か」
スペインの家が、自分のホームになっているからこそ、慣れているはずの自室に違和感を抱くのだ。
それは不思議で、けれど何だかくすぐったい感覚だった。
ベランダのカーテンを開け、ガラリ、と窓を開く。
丁度、正面に見える翼の部屋。
今はカーテンと窓が開いており、既に翼が入った形跡はあるものの、見える限りで彼の姿はない。
中学生の頃は毎日と言っていいくらいに、窓越しに会話した部屋。
その内の半分くらいは、この距離を飛び越えてお互いの部屋を行き来したものだ。
高校生になり、紅が翼の家で世話になってからは―――紅の視線が、翼の部屋の隣の窓に動く。
そこは、紅が借りていた部屋だ。
「翼!」
ベランダの柵に腕を載せ、窓に向かって小さめに声をかける。
彼がそこにいるのかはわからない。
けれど、そこにいる気がしたから、呼んでみた。
紅の想像通りに翼はそこにいて、カーテンが開かれる。
「荷解きは終わった?」
「まだ。これから」
斜め前の窓では、会話がし難いと気付く。
一旦部屋の中に引っ込んだ翼が自室へと戻ってくる。
ベランダを飛び越える事無く、柵越しに会話を再開した。
「早く解きなよ。後に回したら、疲れでベッドに倒れるんじゃない?」
「うん、そうかも。出国ラッシュを侮ってたわ…空港があんなに混んでるなんて」
「こっちは入国だから大丈夫だと思ったけど、駄目だったね」
うんざりした様子の翼。
帰りは入国ラッシュと重なるだろうから―――と考えると、気が重くなりそうだ。
「ねぇ、翼」
「ん?」
「不思議よね。この部屋が、“懐かしい”の」
紅の言葉に、翼は少しだけ沈黙した。
そして、一度自分の部屋を振り向き、改めて紅を見る。
「うん、俺も。部屋が懐かしい上に、広い気がする」
「向こうではずっと一緒だったからね」
スペインの家では、お互いに自室を持っている。
けれど、何となく過ごすのはやはり共同スペースとなるリビングで。
いつでも、近くにお互いの気配を感じられる距離だった。
「母さんが、お節の相談がしたいから荷物が片付いたらおいでって」
「それだけ?」
「………何て言ってほしいわけ?」
「翼はどうなのかなって」
言葉にしなくてもわかる癖に、こうして言葉を求めてくる。
頻繁にある事ではないから、この要求を断れないのだ。
溜め息と共に僅かな羞恥を吐き出す。
「俺も、待ってる」
「うん。すぐに帰るね」
そう言って、紅はまた後で、と部屋の中に引っ込んでしまう。
腰を落ち着ける事もなく、荷物を解き出した彼女を、窓越しに見つめた。
帰る―――そう表現した紅。
彼女は、今まさに自分の家、自分の部屋にいる。
間違いなく“帰っている”状況であるにも関わらず、彼女は帰ると言った。
自分のホームが翼の隣なのだと―――。
「…ったく…」
自分もまた、部屋の中へと戻りながら、小さく笑みを浮かべる。
こんな些細な事で幸せを感じられるほど、呑気な頭だとは思わなかった。
けれど、そんな自分も決して嫌いではないと思う。
「翼、紅ちゃんはまだ帰って来ないの?」
「…母さんもだし」
「?」
「何でもない。今、急いで荷解きしてるから…もうすぐ来るよ」
そう答え、作業に戻ろうとする。
すると、母から「翼」と名前を呼ばれた。
まだ何か用があるのだろうかと顔を上げると、優しい表情に見つめ返される。
「あなた、いい表情で笑うようになったわね」
「…そう?」
「ええ。高校生の頃とは見違えるほどに。気持ちが落ち着いたのかしら」
クスクスと、穏やかに笑う母。
その言葉を受け、翼は自分の心境や、ここ数ヶ月の様子を思い返してみる。
仕事とサッカーと、その辺りの関係が思うようにいかなかった時期もあったけれど、乗り越えられた。
あれからは、驚くほどに安定した生活を送っていた気がする。
「…そうかも」
「今、すごく落ち着かないでしょう?」
図星を指摘され、思わず口を噤めば、やっぱり、と笑われた。
「そう言う顔をしてるわ。早く荷物が片付くといい―――」
言葉を遮る様に、インターホンが鳴った。
反射的に振り向いた紅の部屋に、彼女の姿はない。
窓もしっかりと施錠されている。
翼は手にしていた服をベッドの上に置き、部屋を出ていった。
そんな息子の、あからさまな反応を見た母は、やはり楽しげに笑っていた。
「婚約だけであんなに安定できるなら、早く結婚しちゃえばいいのに」
そんな事を呟きながら、翼の部屋を後にする。
「…ただいま」
「おかえり」
ごく自然に、そう言葉を交わす二人を、階段の上から見下ろす。
一頻、二人が言葉を交わした頃を見計らい、彼女も階下へと降りていった。
「今年は何を覚えたい?」
「えっと…去年は煮物を教えてもらったから…」
「じゃあ、お雑煮を覚えてみる?」
「はい!」
紅と並んで、キッチンで食材を確認する。
彼女が娘になる日は、そう遠くないのかもしれないと思った。
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あけましておめでとうございます。
いつも『Hora fugit』へのご来訪ありがとうございます。
皆様とのお付き合いが始まり、何年になるのでしょうか。
長い付き合いの方もいれば、短い付き合いの方もいるのでしょうね。
そんな、一期一会を大切にしたいと思います。
今年もサイト共々よろしくお願いいたします。
2012年が皆様にとって良い年でありますように。
Hora fugit 雪耶 紅
12.01.01