願うのは、お互いの幸せ
早く寝なさい、と優しく言われ、日付が変わるのを待たずにベッドに入っていたのは、もう何年も前の事だ。
今となっては日付の変更という一大イベントにも、今一重大性を感じない。
それなのに、何故一年のうちこの日だけは大切なんだろう。
ふと、そんな事を思ったりもするけれど、やはりどこか心踊る自分が居る事だって否定は出来ない。
また、一年と言う新たな年が幕を明けた。
ピリリッと机の上に放り出していた携帯が音を立てた。
ダウンジャケットに袖を通しきると、翼はそれを持ちあげて開く。
ボタンを押せば控えめにピッと音がして、耳に添えれば相手の声が聞こえてくる。
なんて便利な機械なんだろう、と思った事は無い。
あるのが、当たり前になっていた。
『翼か?』
「柾輝?珍しいね。どうかした?」
お互いに確認してしまう電話の不思議。
あぁ、と低い声が返ってきて、再度電話の用件を尋ねる。
『今日、昼から初蹴りに行くかって畑兄弟と話してたんだけどよ…翼はどうする?』
「パス」
迷う事なくそう答え、彼は襟元を整える。
時刻を確認しようとして、一瞬目が携帯を探すが、それが手元にある事を思い出すと壁を見上げる。
まだ時間に余裕はある。
それが分かると、彼はボスッとベッドに腰掛けた。
「今日は用があるって言っておいただろ?」
『悪いな。一応、聞けって煩いから聞いただけだ』
「まったく…」
『なんなら、あんた達も合流するか?』
「本気で言ってるなら、怒るよ」
少し声を低くしてそう言えば、冗談だ、と言う答えが返ってくる。
これが例えば直樹だったなら、絶対冗談じゃなかっただろうと思う所だ。
『まぁ、今日は雪耶の好きにさせてやってくれよ。昨日は翼を借りっぱなしだったからな』
「言われなくてもそうするよ。じゃあ、時間だから切るよ」
『一応聞いておくが、行き先は近所の神社だろ?』
「あぁ」
『なら、そっちには連れていかねぇように頑張ってやるよ。日頃の感謝だ』
「柾輝がそんな事を言うなんてね。明日は雨?」
『残念。明日は晴れだ。じゃあな。邪魔して悪かった』
名残を惜しむ事無くプツリと切れる電話に、翼は肩を竦めてそれをポケットに押し込む。
ありがた迷惑…とは言わないけれど、彼にしては珍しい事を言ってきたものだ。
けれど、その気遣いに心の中で少しだけ感謝の言葉を述べておく。
よっと反動をつけてベッドから立ち上がり、彼は自室を後にした。
ピンポーンと呼び鈴の電子音が耳に届く。
程なくして、マイク越しの「入ってくれ」と言う声が聞こえ、門扉に手をかけた。
いつもはちゃんと鍵の閉められている玄関は、今回は難なく開く。
翼の来る時間が近いと言う事で、紅もしくは暁斗のどちらかが開けておいてくれたのだろう。
「よぉ、翼。オメデトウさん」
「おめでとう」
新年初めの挨拶を交わし、暁斗に促されるままに家に上がる。
ご機嫌の様子の彼に、翼は首を傾げた。
「やけに機嫌がいいね?」
「おう。想像以上の出来栄えでな!誰かに自慢したくて仕方ない心境なんだ」
その悪戯めいた笑みは、彼の年齢を3つは下げる。
まるで子供のような屈託の無いそれに、翼は肩を竦めた。
暁斗の言う「出来栄え」が何なのか―――彼なりの憶測は、恐らく間違ってはいない。
彼に引率されるように、その後に続きつつ、翼はそんな事を考えていた。
「紅、翼が来たぞ」
ガチャリとリビングのドアを開く。
先に入った暁斗が中の人物…紅にそう声をかけた。
まだ廊下に居る翼の耳に「ありがと」とどこか弾んだ声が届く。
スッと身を脇へと避けるように移動した暁斗のお蔭で、彼女の姿を捉えることが出来た。
彼の見惚れるような笑顔に見下ろされながら、その姿を目に映す。
「あけましておめでとう、翼」
今年もよろしくね、と彼女は微笑む。
癖の無いストレートの髪をポニーテールに結い上げ、その根元には鮮やかな髪飾り。
淡色を基調とした振袖は、烏の濡羽色のような彼女の黒髪を惹きたてる。
全てが絶妙に彩られ、互いに映える―――そんな姿で微笑む彼女に、翼は言葉を失った。
いつもの花開くような満面のそれではなく、穏やかでそれで居て繊細な綺麗さを潜ませた微笑み。
格好ひとつでこうも変わるのだろうかと言う、半ば感心にも似た想いが脳裏を過ぎる。
しかし、それが前面に出る事は無く、寧ろ脳内は正常な働きを拒んでいた。
「?…翼?」
おーい、と格好には似合わないような声と共に、紅は彼の目の前で手を振った。
それにつられるようにその目に光が戻り、ハッと我に返る翼。
「あ、うん。…おめでとう」
今年もよろしく。
そう答えるのがやっとで、未だどこかぼんやりとした彼に、紅は首を傾げた。
そして助けを求めるように暁斗を見上げる。
「安心しろよ、紅。翼は照れてるだけだ」
ポンと、いつもならば頭を撫でるのだが、折角綺麗にセットした髪が崩れるので肩で我慢しておく。
彼の言葉に、紅はなるほどと頷き、もう一度翼を見た。
余計な事言うなよ、とでも言いたげな翼の視線が彼を見上げている。
そんな視線など物ともせず、暁斗はその端正な顔立ちに笑みを浮かべた。
「俺の自信作だ。惚れんなよ?」
「…手遅れだよ」
呟くように小さくそう答え、翼は紅の手を引いた。
準備は?と問いかければ、突然の行動に戸惑いつつも、出来ていると答える。
それならば、と翼は歩き出した。
「じゃあ、紅を借りてくから」
「おー、行ってこい。夕方にはちゃんと帰れよ」
「え?あ、兄さん、行ってきます!」
半ば腕を引っ張られるようにして、紅は翼に続く。
そんな二人を見送ると、暁斗はリビングのソファーにドサリと腰を下ろした。
そして、ジーンズのポケットから携帯を取り出す。
「―――玲か?おう、俺だ。…あぁ、今出て行った。なぁ、玲。久しぶりに遠出でもするか?」
電話の向こうから聞こえた返事に、彼はテーブルの上に置かれていた車のキーを持ち上げた。
「ねぇ、翼は何をお願いしたの?」
神社からの帰り道、紅はそんな事を尋ねた。
吐き出した息が白く曇り、その視界に現れる。
「紅は?」
「無難に、皆が健康で、幸せに暮らせますようにってね」
「よくある願いだね」
「む…。じゃあ、翼は何をお願いしたの?」
口を尖らせるような振りをして、紅はそう尋ねる。
本当に怒る気も、拗ねる気も無い。
彼女の問いかけに、彼はふっと口角を持ち上げた。
「世界に行けますように」
「…高校生で世界デビューしようって言うの?それはちょっと厳しいよ」
「そんなの、努力次第だけどね。まぁ、俺が言ったのは“いつか”世界に行けますようにって意味だよ」
当たり前だろ?と問いかける彼に、確かにと頷く。
でも、と紅は唇を開いた。
「神様にお願いしなくても、自力で叶えるんでしょ?」
「当然。夢は自分で叶えるものだからね。3年後には世界に行くよ」
強気な発言。
けれど、それはどこか現実味を帯びているものだった。
強がりではなく、彼ならば本当に実現してしまうだろう。
それだけの実力も行動力もある。
真っ直ぐに未来を見つめるその横顔に、紅は目を奪われた。
「なら、私のお願いも少しは効果があったかな」
「まだ何かあるの?」
「うん。特に、翼が健康で怪我もなく過ごせますように、って。きっと、翼の事だからそう言うお願いはしないと思ったし」
やっぱり、思ったとおりだった。
そう言って彼女はクスクスと笑う。
着飾っていても変わらない、彼女本来の心の優しさに触れ、浮かぶのは自然は笑み。
穏やかに微笑みかえした彼に、紅はそっと頬を染めた。
「紅だって、願うのは周りの幸せばっかりだろ?自分は?」
「え、あ…」
「…だと思った」
呆れるのではなく、彼女らしいとでも言いたげなその表情。
彼は頭の後ろで腕を組むと、紅に向かって告げた。
「紅の幸せは俺が願っておいたよ。感謝しなよ?」
「…お互い様、でしょ?」
「まぁね」
そう言って二人して悪戯に笑い、どちらとも無く手を取り合う。
外の外気に冷やされた手は、繋がれると同時に互いの温度を預けあう。
それが背中合わせに支えあう関係を表しているように思えて、どこかくすぐったかった。
愛しい。
そう思うが故に、その手に力をこめる。
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あけましておめでとうございます。
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今年も頑張ってまいりたいと思いますので、どうぞ宜しくお願いいたします。
2007年が皆様にとって良い年でありますように。
Hora fugit 雪耶 紅
07.01.01