選ぶべきもの

「本当にごめん」

目の前で手を合わせる蔵馬。
そんな彼に苦笑を浮かべながら、私は何度も気にしないでと言ったのだけど…。

「大丈夫だって!父さんの分まで俺が母さんの傍に居るからさ!」

蔵馬の前、私の膝の上でにこにこと嬉しそうに…と言うよりも勝ち誇ったように笑う暁斗。
その言葉を前にした蔵馬の口元がひくりと動いた事に気づかないほど…
あなたとの付き合いが浅いわけじゃないわよ、蔵馬。










かなり後ろ髪引かれながらも蔵馬が去ってから数時間。
あと十数分で日付が変わるだろうと言う事もあり、紅はキッチンに立っていた。

「ねぇ、母さん。本当に父さんに帰って欲しかったの?」

声の主はキッチンのすぐ脇に設置されている椅子に、その背もたれを抱くようにして逆向きに座っている。
菜箸を持ったままの手を一旦止め、紅は彼の顔を見た。
その表情は純粋な疑問を浮かべている。

「…そうね。居てくれたら嬉しいけど…」
「“けど”?」
「今の蔵馬には家族があるから」

それを蔑ろにしてまで、自分の傍に居てほしいとは思わない。
その家族のおかげで今の彼があるのだから。

「…んー…」
「私にとって幻海師範が恩人である事。それと似ているわね」
「あ、そう言う事か」

暁斗には難しかったのか、単に考える事を放棄していたのか。
事実がどちらかはわからないが、紅はクスリと微笑んで助け舟を出す。
その簡単な例えに暁斗は頷いた。

「父さんも母さんも変わったね。まさか、人間相手に笑うようになってるとは思わなかった」

腕に顎を乗せ、暁斗はニッと口角を持ち上げる。
その楽しげな表情に紅は肩を竦めた。

「あなたも十分変わったわ」

仕上げとばかりにコンロの火を止め、紅はシンクの方へと移動する。
出来上がっていくまでの工程を眺めながら、暁斗は彼女の言葉の意味を考えていた。

「幻海師範は自室で頂くみたいだけど…あなたはどうする?」
「母さんと一緒」
「はいはい。じゃあ、部屋に持って行くから待っていて」

お盆に幻海の分と思しき、椀に盛られた蕎麦を載せて紅はキッチンを出て行った。
その背中を見送り、それが見えなくなると暁斗はピョンッと椅子から飛び降りる。
軽い動作で床に足をつき、隠していない尾を楽しげに揺らしながら紅の部屋へと歩いていった。














人は年越しの際に『年越し蕎麦』と言う物を食べるらしい。
それを聞いてからと言うもの、紅は毎年それを用意するようになった。
そして今年も例に漏れず、それは彼女の平机の上にある。
すでに日付も変わり、椀の中は空になっているが。

「母さん、何で窓開けてるの?」

寒いよ、と暁斗が毛布を引っ張ってくる。
そんな彼にクスクスと笑いを漏らしながらその頭を撫で、紅は言った。

「お客様をお迎えしないと」

紅の手の動きに心地良さそうに目を細め、その言葉に疑問符を浮かべる。
首を傾げて見上げてくる彼は紅にとっては可愛い。
金の双眸に微笑み返し、紅はふと窓から入って髪を遊ばせていく風に目を細めた。

「…ほら、ね」

次の瞬間、窓から見える大きな木の枝には銀髪の美しい妖狐が居た。














「まさか今日だとは思っていなかったな」
「周期的に考えて、今日の夜更けだと思ってたわ」

窓から迎え入れた客人に、紅は外の寒さで冷えた身体を温められるような飲み物を用意する。
紅がキッチンへと向かっていた間に、暁斗は蔵馬の膝の上へと移動していた。
そして、そのまま寝付いてしまったようだ。
時折ピクリと耳を揺らし、それでも瞼を閉じて規則的な呼吸をする暁斗。
彼は蔵馬の膝を枕にしてカーペットに直接横になっていた。

「寝ちゃったのね」
「そうみたいだな」
「…そのままだと風邪引くわ」

そう言って紅が暁斗を移動させようと手を伸ばす。
だが、それをやんわりと制して蔵馬が暁斗の身体を抱き上げた。
まるでタオルを運んでいるように軽々と彼をベッドへと移し、その小さな身体に布団をかける。

「いつもこんな時間に寝てるのか?」
「まさか。最近はテレビゲームにはまって楽しんでるわよ」

下手すれば一晩中、と紅は溜め息を一つ。
一日や二日や三日くらい寝なくとも、生粋の妖怪である彼が身体を壊したりする事はまずない。
だが、やはり紅も人間としての身体に慣れすぎていたらしい。
毛布もかけずに寝ているのを見れば風邪を引くと心配するし、寝なければ寝不足を案じる。
何とも人間らしくなった物だと、紅は自嘲の笑みを零した。

「所で…家のほうは大丈夫なの?抜け出してきて…」

母親に見つかったりしないのか、と紅は蔵馬に向かって問う。
サラリと流れてくる銀髪が鬱陶しいのか、蔵馬はそれを軽く束ねながら答えた。

「今まで年越し後、一時間と起きていた覚えはないな」

随分と真面目な家だ。
今の時間が二時を回った所だから、彼女が寝床へ着いたのを見計らって抜け出してきたのだろう。

「良かったね、健康的な家庭で」
「……喜ばせたいのか、落ち込ませたいのか…どっちだ?」
「さぁ?」

クスリと笑って紅は用意してきた飲み物を勧める。
そして彼の隣へと腰を降ろし、その肩に頭を乗せた。

「妖狐に戻ってどれ位?」
「もうすぐ一時間だな」
「って事は…秀一に戻るのもすぐね」

紅は自身の髪を指に絡めながらそう言った。
あぁと短く返事をする蔵馬から頭を離し、彼に向き直る。

「蔵馬。あけましておめでとう」
「……おめでとう、紅」

挨拶を忘れてたわ、と苦笑する彼女の額に軽く唇を落とし、蔵馬も同じく新年の挨拶に相応しいそれを紡ぐ。
頬を手で挟みこまれると、紅は擽ったそうに身を捩った。

「妖狐である蔵馬に新年の挨拶って…魔界ではそう言う風習がなかったから、何だか変な感じね」
「そうだな」

その言葉を紡ぎ終えるや否や、彼は僅かに身を強張らせる。
彼の変化に目聡く気づいた紅は邪魔にならないように少しだけ距離を取った。
ドクンと心臓が脈打つごとに、妖狐が南野秀一へと変化するのを感じる。
やがて視界に流れた髪が黒味を帯びたのを最後に、その変化は終わりを告げた。

「まだ慣れないのね」

先程飲み物を取りに行った時に用意していたのだろうか。
紅はタオルを片手に蔵馬に近寄り、その額に沸いた汗を拭う。

「準備がいいね」
「…何度も見ていれば、自然とわかるものよ」

やはり身体が変化すると言う事は、ある程度の苦痛が伴う物だった。
妖狐からの変化は特に。

「さて。これで家に帰れるようになったわね」

蔵馬を気にしてか、紅は少しだけ部屋の窓を開いた。
隙間から入り込んできた風が火照った頬を撫でていく感覚が心地よい。
暁斗が寒くないようにと、もう一枚毛布を上に重ねて、紅は風除けとなるようにベッドの横に座る。
いつの間にか立ちあがっていた蔵馬。
紅は、家に帰るだろう彼を見送ろうと思って立ち上がる。
しかし、立ち上がろうとした身体は左腕を中心にガクリと崩れ落ちた。
油断していたわけではないが軽く腰を打ち、紅は文句でもいいたそうにその原因を見る。
左手首にしっかりと自身の手を絡め、隣に座る彼を。

「何で立ち上がるの?」
「…何でって…帰るでしょ?」

疑問に疑問で返すのは失礼と思いつつも紅はそう言った。
首を傾げての彼女の言葉に、蔵馬は「あぁ」と生返事を返す。
そして、にこりと微笑んで見せた。

「帰るよ。紅と日の出でも見てからね」
「…日の出?」
「ほら、初日の出。今年初めての日の出だからね。一緒に見ようと思って」

まだ暗い外に視線を向け、蔵馬はそう言った。
その言葉に唖然と口を開く紅。

「日の出って…まだ数時間はあるわよ…?」
「そうだね」
「“そうだね”って…それまでどうするつもり?」

窓の外に広がる闇と、蔵馬。
それを交互に見ながら紅は再度問いかける。
その質問に蔵馬は口角を持ち上げて静かに彼女の耳元に唇を寄せる。

「        」

鼓膜を震わせる彼の声。
それを聞き取るなり紅はふっと表情を緩めた。

「もちろん。Yes、でしょう?」

そう答え、紅は優しい笑みを浮かべ、自ら蔵馬の唇に掠めるようなキスを送った。





日の出の頃、二人はより美しく見える場所へ、と屋根へと向かった。

「…はぁ。あの魔界は夫婦愛が薄いって聞いたんだけど…所詮は噂ってことかな」

ぱちりと目を開いた暁斗は、誰も居なくなった部屋の中で溜め息と共にそんな言葉を漏らす。
彼の視線の先では、窓に寄り添う大きな木の枝の隙間から朝日が見えてきていた。

「ま、仲が悪いよりはいいのかな…。優しいし、綺麗だし、強いし…ね」

きっと二人を照らしているだろう太陽にもう一度視線を向ける暁斗。
そして、彼は二度寝の為に紅の布団へと潜り込んだ。



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明けましておめでとうございます。
昨年中は『Hora fugit』へお越しくださいまして誠にありがとうございます。
今年も頑張って参りたいと思いますので、どうぞよろしくお願い致します。

2006年が皆様にとって良い年でありますように…。

Hora fugit 雪耶 紅

06.01.01