心の安らぎ
「……………」
「イルミ…?」
彼が私の部屋を訪れてからすでに5分。
じっと視線を向けてくるにも拘らず依然として口を開く事は無い。
言葉を選んでいるようにも、言葉として発することにも躊躇っているような…そんな様子。
きっと私しか気づけないような、ほんの小さな物ではあったけれど。
「イルミ…?」
「………デートしない?」
「………………………………………………………は?」
ザクザクと雪を踏みしめて歩きながら、コウはマフラーに口元を埋める。
コウとイルミはまだ夜も明けないゾルディック家の敷地内の森を歩いていた。
慣れ親しんだ彼らでなければ、恐らく雪の下にある木の根などに足を取られるだろう。
隣…では無く一歩半分斜め前を歩くイルミの背中を見ながら、彼女は緩みそうになる口を叱咤した。
「びっくりしたわ…まさかイルミからデートのお誘いがあるとは…ね」
色気もムードもないお誘いだったけど、とコウは喉で笑う。
声に出して笑い出さないのはイルミを思っての事か、もしくはそれ笑い出したら止められないからか。
コウだから後者が有力かと思われるが、本当の所はわからない。
「………母さんに言われたんだから仕方ないだろ…」
振り向く事なくイルミがそう言う。
実際の会話はこうだ。
『イルミ。最近コウが食事以外で部屋から出てこないわね』
『…仕事が大詰めだって』
『仕事もいいけれど、部屋に篭りっぱなしも身体に悪いわ。コウを外に誘ってあげなさい、イルミ』
『何で俺が…』
『あら、コウの婚約者はあなたでしょう?デートのお誘いを女性からさせるのは野暮よ』
と、これが実際の会話である。
クスクスと笑って去っていく背中を見送り、イルミは静かに溜め息を吐き出した。
殺し尽くめの生活をさせておきながら、今更になって女性を誘えなどと無理難題を持ちかける母。
裏工作も得意なコウとは違い、『誘う』と言う行為はイルミにとってはどちらかと言うと苦手な部類に入る。
日付が変わってから今の今まで悩んだ末、彼は冒頭のような誘いでコウを部屋から連れ出したのだ。
イルミの返事にコウはいよいよ肩を振るわせ始めた。
らしくないと言えばらしくない。
しかし、珍しくも照れているらしい彼を見ているのは楽しかった。
わかりにくい変化ではあるが。
「で、どこに連れて行ってくれるの?」
軽く手を擦り合わせてコウは小首を傾げて見せた。
声にあわせて振り向いていたイルミの視界に彼女が入り込む。
暫し目を合わせての沈黙。
耐え切れないと言うよりは疑問の方が先に立ったと言うような様子で、今度は反対側へと首を傾げるコウ。
「…ま、行けばわかるよ」
「たっぷり沈黙を取った割にはそれですか」
まぁいいけど…とコウは苦笑に似た笑みを零す。
そしてすでに足の動きを再開している彼の後を追う。
例え同行人があろうと無かろうと、イルミが自分の歩調を変える事はまずない。
しかし、コウに限っては違っていた。
彼女自身がイルミに遅れをとると言う事はないが、彼自身もまた彼女を遅れさせるようには歩かない。
片方があわせるのではなく、お互いが無意識のうちにあわせるのである。
足場の悪い闇夜の散歩の中でも離れてしまわないのはこのおかげなのだろう。
ザクザクザクザク。
足音だけが夜の森に響く。
森と言うのだから生き物の動きや鳴き声があっても良さそうだが、生憎と今日は寒い上に雪。
気温を感じられる物は全て己の塒へと引っ込んでいるらしかった。
「寒い」
言う事が他になかったからか、コウはポツリとそう漏らした。
耐え切れない程ではないし、況してや一般人よりも遥かに鍛えてある身体だ。
小一時間ほど歩いても息一つ切れていないのだから、この文句にも取れる言葉は明らかに本心ではないだろう。
ただ、口をついて出てきたのがこの言葉だった、と言うだけである。
「ルシアを呼べば?って言うよりも何で連れて来てないの?」
「折角のお誘いにあの子達を連れてくるほど野暮なつもりは無いけど…」
でも寒い、とコウは再び口をマフラーに埋めた。
その時、前を歩いていたイルミがその足を止める。
イルミの足跡へと視線を落としながら歩いてきたコウは、続きがなくなった事で顔を上げた。
彼女の目に映ったのは呆れた様な…それで居て優しい表情の彼。
「イルミ?」
「仕方ないね…」
そう呟くと同時にイルミは自身のコートのポケットに手を突っ込んだ。
そしてその中から対になった手袋を取り出し、彼女の手にスルリと嵌める。
冷たい皮の感触が手から伝わるが、寒い風を遮ってくれているだけで温かかった。
「ほら、行くよ。時間が危ないから」
「あ、うん。ありがとう」
手袋を嵌めた時のままに手を離さず、イルミは再び雪を踏みしめて足跡を残していく。
初めこそ引っ張られるように早足になった物の、コウもすぐに体勢を整えて歩き出した。
「持ってたなら何で使ってないの?」
「…部屋を出る時に引っ掴んできたから忘れてた」
「……変なとこで忘れっぽいね、イルミ…」
クスクスと笑い、コウは木々の向こうに建物を見止める。
恐らく、それがイルミの言う目的地なのだろう。
そうして雪を踏みしめ、二人は森の中に佇む見張り小屋へと足を進めた。
今では使われていない、三階建ての見張り小屋。
付近の木よりも高い目線でと三階建てにしたそうなのだが、地理的な問題で二年目には使われなくなった。
予め鍵を開けてあったのか、はたまた元から閉まっていないのか。
事実をコウが知る由もないが、兎にも角にもさっさと入って行ったイルミに続く。
ブーツで踏み入れた床がギシリと悲鳴を上げた。
「あ。時計持ってる?」
「時計?持ってるけど…」
一階から二階へと続く階段を上っている途中、イルミはコウを振り向いて問いかけた。
更に開いた身長差を埋めるように足を速め、彼女は時計を巻いた腕を差し出す。
デジタルよりも瞬時に時を把握できると言う事で、コウはアナログ時計を好んで使用していた。
「…間に合ったね」
時を読み取ったイルミはそう呟き、次の段へと足を進めた。
彼女も自身の目で時間を確認し、そして彼を追う。
「ここってさ。使われなくなって十年近く経つけど…結構穴場なんだよね」
知ってた?と彼はコウに質問を投げかける。
コウにとってはこの見張り小屋に足を踏み入れたのはこれが二度目。
何の穴場なのか、と言う事を知るはずもなく、彼女はフルフルと首を横に揺らす。
「…だろうと思って連れて来た」
そんな風に言葉数少なくもそれを交わし、二人は三階へと足を落ち着ける。
しかし、イルミはその場で止まる事なく東に面した窓の方へと歩いていく。
「おいでよ」
見張り役の安全を考慮して、壁一面の8割ほどを占めるような大きな窓には防弾ガラスがはめ込まれている。
それの前に設置された椅子に腰を降ろし、イルミはコウを呼んだ。
大きな窓枠の中に見える風景は次第に白み始めているが、本体は未だ山の端に隠れたまま。
それを見せられればいくら勘が悪くてもどういう理由で連れて来られたのかと言う事くらいは気づくだろう。
彼と共に来たのは寧ろ冴えているくらいのコウだ。
心得たり、とばかりに笑みを浮かべ、彼女はイルミの隣に腰を降ろす。
「三日ろくに寝ていない人間を連れてくるには随分イイ所ね」
「………嫌味?」
「まさか。久しぶりに外の空気を吸った気がするわ」
森の向こうに頭を覗かせ始めた朝日に視線を向けつつ、コウは穏やかにそう言った。
そして、ふと己の手首へと視線を落す。
文字盤に刻まれた日付を見て、コウは「あぁ」と納得したように頷いた。
「いつの間にか新年?」
今気づいた、とコウは珍しくも驚いたように目を見開いた。
この一週間仕事に追われていたのはその所為か…と今更ながらに悟る。
いくら情報屋を頼る依頼人とて年始は休みたいと言う心があるらしい。
とりあえず過度の心配を掛けないようにと食事だけは欠かさず共に取っていたのだが。
「そう。コウが仕事漬けになってる間に新年。で、これが初日の出」
まだ眩しいとまでは行かない朝日を眺めつつイルミが答える。
その言葉に苦笑を浮かべ、コウはトンッと彼の肩に頭を乗せた。
「今頃眠くなってきた…」
「寝れば?」
「んー…イルミ困るでしょ」
すでに声に覇気がない時点でかなり危うく彷徨っている状態だと言う事がわかる。
瞼を落しつつもコウは彼を気遣うような言葉を口にした。
「別に。邪魔になったら部屋に連れて帰るし」
「………ごめん、よろしく…」
何とかその言葉を紡ぎ終えるなり、肩に掛かる重みが変わる。
もちろんイルミにとって重いと言うほどのものではない。
規則正しく聞こえてくる寝息を耳にしながら彼は隣の彼女を盗み見る。
銀色の髪に隠れてしまっていて、その綺麗な顔立ちは見えていない。
「…無理しすぎだね」
邪魔そうに頬から口元へと掛かっていた横の髪を払ってやれば、少し痩せた頬に手が触れた。
口を突いて出てきたのは溜め息交じりの言葉。
しかし、明らかな心配の色の含まれたそれに、イルミは自嘲の笑みを零す。
もう暫く経てば不愉快に取れる程に眩しくなるであろう朝日を遮るように、イルミは窓のブラインドを下ろす。
隙間から差し込む明かりが極端に抑えられたことにより、部屋の中は薄暗さを取り戻した。
音と言う音も無い部屋の中、お互いの呼吸音だけが二人を包む。
無理をするなと言っても聞くような君じゃないから。
せめて…安らげる場所だけは用意しておいてあげるよ。
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明けましておめでとうございます。
昨年中は『Hora fugit』へお越しくださいまして誠にありがとうございます。
今年も頑張って参りたいと思いますので、どうぞよろしくお願い致します。
2006年が皆様にとって良い年でありますように…。
Hora fugit 雪耶 紅
06.01.01