手に入れた幸福
こんな風に誰かを愛せるとは思っていなかった。
傍に居るだけで満足で、名前を呼ばれるだけで切ないほどに嬉しくて。
やり場の無い愛しさが、一分一秒と募っていく。
ただただ、幸せだと思った。
あなたに逢えたこと以上の幸せなんて、存在しないと思うほどに。
政宗を探して、城の中を歩く紅。
どこに居るのかは見当が付いている。
遠回りも寄り道もすることなくそこを目指せば、彼の気配を感じた。
便利だな、と思いながら扉を開き、音もなく中に入り込む。
無心で刀を振る彼の邪魔をしてはいけない。
その真剣な背中に、紅の中の武士の心がざわめくのを感じた。
正面から対峙したい―――そんな欲求を抑える理由は、今の服装にある。
いつもの動きやすい袴姿ならばまだしも、どう大目に見たとしても、訓練には不向きな格好だ。
仕方がないのだと自分自身に言い聞かせた所で、彼が振り向いた。
「紅」
「は、はい!」
「行商は来たか?」
「え?今日は…まだ来ていないと思いますが」
確か、と呟く彼女に、そうか、と短く返す政宗。
彼は刀を鞘へと納め、そのまま紅の元へと歩いてきた。
近付いてくる彼を横目に、近くに置いてあった手拭いを拾い上げ、それを差し出す。
受け取った政宗から、代わりに差し出される刀を受け取った。
「で、何か用か?」
汗を拭った政宗が、手拭いを肩にかけて紅に問いかける。
軽く汗を流した程度だったので、そんなに真剣に拭う必要が無いのだろう。
紅は彼から手拭いを受け取り、刀と交換してから鍛錬場に視線を一巡させる。
「えっと…」
どうしようか、と悩んでも仕方がない事を悩む。
それでも、黙って待ってくれている政宗を思うと、やはり何もありませんとは言えなかった。
意を決して持ってきていたそれを彼に差し出す。
「…受け取っていいのか?」
「是非」
それを差し出したまま、視線は足元…とは行かなくても、自分の腰あたりに落としている紅。
耳まで赤くしている様子に、彼はフッと笑みを浮かべた。
そして、紅の手からそれを受け取る。
「何の贈り物だ?」
「…私の生きていた時代には、バレンタインデーと言うものがあります。
如月の14日目なので、随分と過ぎてしまいましたが…その…大切な人に、贈り物をする日、なんです」
何も知らない彼に説明するには、些か簡略すぎるだろう。
しかし、知らないからこそ、紅の精一杯の説明が全てとなる―――筈だった。
「…行商はまだっつってたな」
「ええ。そろそろかと思いますが…何か頼んでいるのですか?」
「あぁ。ちょっとな」
頷いた彼は、紅から貰ったそれを、どこか不満げな表情で見つめている。
渡されたことが不満なのだろうか、と少しばかりの不安が紅の胸に広がった。
その時、近付いてくる小十郎の気配に気付き、紅の意識がそちらに向く。
それに気付いた政宗が、小十郎か?と問いかけ、頷く彼女。
すると、政宗の表情が変わった。
「政宗様、行商が到着しました」
「漸くか。俺の部屋に運ばせておけ」
「は!」
それだけを伝えにきたらしい小十郎は、すぐにその場を去った。
去り際に紅に頭を下げていく気配りは流石と言うべきだろう。
彼を見送ってから政宗を見上げると、先ほどとは一転。
満足げな表情を浮かべる彼は、紅の視線に気付いて「行くか」と口を開いた。
「あの…?」
「いいから。付いて来いよ。んで、風呂に入るから、その後の時間を俺にくれないか?」
「ええ、もちろん。では、部屋で待たせていただいて―――」
「付いて来い、って言ったよな?」
そう言うと、彼はそのまま紅の腕を掴んで歩き出す。
紅は、大股で歩いているように見えて、速度は紅に合わせてくれる彼のさりげない優しさに軽く頬を染める。
しかし、どこに連れて行かれるのかを思い出し、慌てて声を上げた。
「ま、政宗様!お風呂の準備をしてきますから、その…!」
「させてある。いいから付いて来い」
「いえ、そのですね…!」
「別に一緒に入れって言ってるわけじゃねぇだろ。背中、流してくれよ」
笑顔でそう言われれば、反論の声を飲み込んでしまう。
一緒に入らなくていいなら…と妥協してしまうのは、彼が相手だから仕方がないのだろう。
「…いつもに増して強引ですね、もう」
「強引ついでに風呂に放り込んでやろうか?」
「遠慮します!」
風呂までの道を騒がしく歩く二人は、微笑ましげな視線が自分たちに向けられていた事など知る由もない。
風呂に入っても居ないのにのぼせそうになった所で、漸く風呂から解放された。
色々と一杯一杯になっている紅の手を引いて歩くのは、汗を流してさっぱりした政宗。
しんなりと濡れた髪ですら鼓動を早める要因となりかねない。
「いつまでも初々しい奴だな。いい加減慣れろよ」
「…慣れたくないです」
「…ま、それがお前らしいか」
閉ざされた自室の襖の前にやってきた二人。
襖の前に立った政宗は、グイッと手を引いて彼女を隣に立たせる。
「開けてみろよ」
そう言われ、紅は首を傾げて彼を見上げた。
しかし、彼は彼女の手を襖にかけさせて、再度開ける様にと促すだけ。
説明する気のない彼に、紅は手に力を込めて襖を開く。
滑りよく襖が開き、室内が明らかになって―――
「う、わぁ…」
思わず声が零れ落ちた。
部屋の中を埋め尽くすほどのものではないけれど、一番に目に入る位置に置かれた籠の中に、色鮮やかな花。
多種類の花が美しく籠の中に収められているそれは、紅の目を惹きつけて放さない。
「お前はカジキマグロよりもこっちの方が喜ぶだろうと思ってな。予想外に時間がかかっちまったが…」
カジキマグロと言う単語に、紅は悠希の手紙を連想した。
―――バレンタインの話をしてあげたら、カジキマグロを釣って来てくれたのよ。驚いたけど、嬉しかったわ。
もちろんお返しはちゃんと用意してたけどね。筆頭もきっと喜ぶから、紅も何か贈りなさいよ。
手紙の一文が思い浮かび、まさか、と思って政宗を見上げる。
「悪ぃな。悠希から手紙が来て、知ってた」
互いに悠希からの入れ知恵により、動いていたらしい。
日本では女性からの贈り物が主流だが、悠希は欧米風のバレンタインを教えたのだろう。
紅は堪えきれずにクスクスと笑い声を零した。
「じゃあ、聞いているんですね」
「あぁ」
「大切な人に贈り物をする日だけど、少しだけ違うということも?」
「…まぁな」
得意げに口角を持ち上げる彼に、必死に取り繕った説明が無意味だったことを悟る。
頬を赤く染める彼女を引き寄せ、その腕の中に閉じ込める。
背中から彼女をしっかりと抱き締め、耳元へと唇を寄せた。
「あいつが言うには、イイ言葉が聞けるらしいんだが?」
「…もう、悠希ったら…」
紅が中々言葉に出来ない事を知っていて、あえて政宗にそう教えたのだろう。
全く、と思うが、もちろん感謝の心も忘れては居ない。
こんなイベントでもなければ、そう易々と口には出せない性格だから。
「………愛しています」
本当に小さくそう告げ、身体を捻って彼の唇に自身のそれを重ねる。
一瞬の触れ合いから逃げるように距離を取るも、後頭部に差し込まれた手がそれを許さなかった。
より深く口付けられ、思考に甘い霞がかかる。
額を寄せ合う二人の傍らで、色とりどりの花が美しく自身を主張していた。
Thank you 3,000,000 hit!!
09.02.20