逃げ出したい視線

何故、このような事になってしまったのか。
背中から伝わる体温は温かいし、何よりとても安心させられる。
人肌と言うものの偉大さを改めて感じつつも、やはり何故、と言う想いが消えない。
その時、頭上で響いた雷鳴に、コウは身体を強張らせる。
腰に回した手を拒む事は出来ず、逆に、思わず手に力を込めてしまった。
子供みたいだと思いながらも、この安心感は手放し難い。
ぐるぐると入り乱れる感情は、最終的には現状維持に対して白旗を揚げた。












天気が変わる。
修行の合間に空を仰いだコウは、そう思った。
雲の流れがとても速く、瞬きの間に変化を見せるそれは、嵐を呼ぶかもしれない。
大気の流れは、どこか人体の血流と似通う部分がある。
体内を流れる血であったり、念であったり―――そう言ったものを操作するコウは、天気の読みに長けていた。

「クロロ。天気が崩れそう」

コウが修行する近くで、木に凭れて本を読んでいたクロロが顔を上げた。
空を見上げても、彼にはその変化はわからない。
ただ、いつもより雲の動きが速いか…と言う程度だ。
しかし、彼は本を閉じて木から背中を離す。
コウの天気の読みは、マチの勘と同じくらいに信用していた。

「場所を変えよう。ホームに戻るぞ」
「はーい」
「そうだな…20分だ」
「………車で3時間の距離を、無茶苦茶言うわね」

そう言いながらも屈伸を始める彼女。
言い出したクロロには何を反論しようが無駄と言うことを理解しているのだ。
コウに出来る事は、既に決定事項となっている全力疾走を前に、しっかりと身体を解すことくらいである。
うーん、と大きく伸びをしたところで、ホームの方向を確認し、同時に地面を蹴った。
きっと、何も知らない一般人の目には、人が一瞬で消えたように見えただろう。






そうして、もう少しでホームに辿り着くと言う所で、バケツをひっくり返したような豪雨に見舞われた。
前触れ無く降り出した雨は容赦ない攻撃を繰り返してくる。
寧ろ痛いと感じるほどの雨だ。
時間にすればたかが1分程度だったが、全身ずぶ濡れになるには十分すぎる時間だった。

「あと5分早く気がつけばよかった…」

玄関ホールに踏み込んだ所で、コウがそんな後悔の言葉を口にする。
今回のホームは無人ではなく…と言うよりも、一流ではないホテルだ。
値段不相応に綺麗に整えられた部屋を借りて2週間目に入ろうとしている。
既にホテルマンの中にも顔見知りが出来始めていて、移動時だなと考えているのはクロロだけではない。

「予想以上の嵐だな」

ホールから外の豪雨を見つめ、そう呟くクロロ。
雨の所為で額に落ちてきた髪を掻き揚げれば、受付やホールの端に置かれた喫茶スペースから甘い溜め息。
さりげなく視線を向けると、ほんのりと頬を染めた女性がクロロの動作に釘付けになっている。
確かに、彼の持つ肩書きさえ知らなければ、憧れたり一目惚れしたりするには十分すぎる容姿だ。
そんな事を考えた所で、コウの視界に白いタオルが差し出された。

「お客様、あの…よろしければお使いください」

軽く頬を染めたホテルマンは、視線をコウへと固定し―――しかし、すぐに逸らしながら、そう言う。
近付いてくることに気付いていなかったわけではないが、害意も殺意も見受けられなかったので放置していた。
差し出されたタオルを見て、部屋に戻るだけだから、と断ろうとした所で、クロロがこちらを向く。
すると、珍しく彼が目を瞬かせた。

「コウ」
「何?」
「使え」

短くそう言った彼は、ホテルマンの手からタオルを取ってコウの頭にかぶせる。
髪を傷ませないように慎重かつ迅速に水気を拭った後は、湿ったタオルを彼女の肩にかけさせた。
そんな彼の行動に疑問符を浮かべて首を傾げる彼女。
クロロは、彼女の疑問を解消すべく、耳に口を近付けた。

「透ける」

単語の意味を悟って自身を見下ろせば、白いシャツの下に素肌が透けていた。
同時に、先ほどから自分自身に向けられる視線の意味を知る。
人並みの羞恥心はあるけれど、ポーカーフェイスはどちらかと言えば得意だ。
恥ずかしいと反応する前にここから離れることが得策と判断し、クロロを促して部屋に向かって歩き出す。
二人を見送った者たちは、美男美女の組み合わせに色めいた溜め息を零したと言う。











シャワーを浴びて、風呂上りを感じさせないくらいにきちんと身なりを整えて。
することもなくなったコウは、点でオーラを落ち着かせながら瞑想していた。
水の滴る音すら聞こえない、無音の世界。
いくらかの時間が過ぎて、そっと目を開く。
開いた視界に入り込んだクロロの顔に、コウは声も忘れて瞬きを繰り返した。

「い、いつの間に…」
「集中していたとは言え、周囲への注意が疎かになるようではまだまだだな」
「完璧に気配を消してきた人のセリフじゃないけれど…まだまだ、ね」

集中していて、近付くのに気づかないのでは意味が無い。
反省の色を見せるコウに、クロロは小さく微笑んでその頭を撫でた。
ふと、コウの視線が窓の方を見る。
雨の具合を確認したのだろう、と思いつつクロロは荷物の所へと向かうべく、身体を反転させた。

―――と、足元に響くような轟音と衝撃。

それが雷鳴だと気付くのに時間がかかるほどの大きさだった。

「凄いな。―――で、お前は何をしているんだ?」

初めの一撃をきっかけに、不定期に鳴り響く雷が空を光らせる。
その様子に視線を向けてから、首だけを動かして自分の背中を見た。
隙間無く抱きついているそれは、見紛うことなくコウだ。
ベッドに座っていたはずの彼女は、雷鳴と同時にクロロの背中へと突進した。
避ける事は―――出来たような、出来なかったような。
とにかく、背中で彼女を受け止めたクロロは、見たことも無い様子に疑問符を抱く。
雷鳴が響く度に腕の力が強くなっていることに気付き、彼女の行動の原因を理解した。

「…雷か」

心底意外だ、と言いたげな声を落とせば、苦しいほどに腕で胴を絞められた。
図星だと言う事は明らかで、思わず笑い声を零してしまえば、腕の力は更に強まる。
しかし、その恐ろしいほどの腹筋は、まるで鉄板を絞めているような感覚だ。
舌打ちしたくなったのは一瞬のことで、次の雷によりそんな考えは遥か彼方へと飛んでいく。

「…少しは腕を緩めるつもりはないか」

大人しく背中を提供していたクロロがそう言った。
返事の代わりにほんの少しだけ腕を緩めれば、その隙間を使ってくるりと身体を反転させる彼。
そのままあっさりと抱き上げられ、抵抗の声を上げる前にベッドに落とされた。

「ちょ―――っ!!」

何をするの、と言う言葉は、再度響いた雷鳴により掻き消される。
小さく竦むコウに、クロロは口元を持ち上げる。
そして、その身体を足の間に挟むようにして、後ろから抱き締めた。

「この方が落ち着くだろう」

そう告げられれば、強く抵抗する事は出来なくなった。
別の意味で落ち着かないだろうと思っていたけれど、不思議と雷鳴が遠のいているように聞こえた。
雷雲はまだ頭上に存在しているにも関わらず。
認めるのは釈然としないけれど、落ち着くと言うのは否定出来そうにない。
無言で大人しくなったコウに、クロロは堪えきれずにククッと笑う。
腕を抓まれる痛みなど、殆どないに近い。

「…昔、家の裏の木に雷が落ちたの。とても好きな木だったのに…」

それだけしか話してはくれなかったけれど、雷が嫌いな原因なのだろう。
子供のようだな、と思いながらも、心のどこかが思い切り甘やかして優しくしたいと訴える。
しかしながら、本能のままにと言うわけには行かず。
クロロは、後ろから彼女の手を握った。
掴むだけではなく指を絡めるように握っても、彼女はそれから逃げようとはしない。

―――とりあえずこの距離で満足しておくことにするか。

全く気にならない雷鳴をバックミュージックに、彼女の身体を抱き締め続ける。

Thank you 3,000,000 hit!!

09.02.17