移り行く季節
朝、執務室へと急ぐ途中、ふわりと梅の香りが鼻をかすめ、思わず足を止めた。
腕に持った仕事の山を抱えなおし、匂いの方を振り向く。
すると、その先に建物の影にひっそりと佇む梅が見つかった。
「こんな所に…」
知らず知らずのうちにそちらへと歩き出した紅は、自分の背丈よりも低いそれに目線を合わせるように屈む。
その時、風に乗った花びらのひとつが、彼女を歓迎するように降り注いだ。
風と共に香る優しい匂いに表情を緩め、ひとしきり穏やかな時間を過ごしてから、ゆっくりと立ち上がる。
「ありがとう」
心の安らぎをくれた梅の花に感謝を告げ、彼女はその場を去る。
紅、と名を呼ばれ、紅は書類から顔を上げた。
声の主を探せば、すぐ近くに居た阿散井と目が合う。
「俺じゃないです」
「わかっていますよ」
とりあえず首を振る彼にクスリと笑ってから、その向こうに居る白哉を見た。
目で近くに来るようにと促す彼に頷き、書類を机に置いて立ち上がる。
すると、阿散井で見えなかった彼の全身を確認することが出来た。
「手は空いているか?」
「急ぎの仕事はありません」
「では、これを十三番隊の浮竹に届けて欲しい」
そう言って差し出されたものを受け取る紅。
わかりました、と答えると、彼の手がそれを支えるのをやめた。
ずし、とそれなりの重みを伝えてくるそれに、中身は何なのだろうかと疑問を抱く。
「すぐに参ります」
「ああ。紅」
「まだ何か?」
「それが終われば上がって良い」
そう告げられ、紅は少しの間を置いて、静かに頷いた。
この程度を公私混同とは言わないのかもしれない。
けれど、彼が執務室でこのような個人的な会話をする事は珍しく、故に少しだけ驚いた。
そんな紅だが、ふと部屋の中を見回して、あぁ、と納得する。
いつの間にか仕事をしていた死神は全員で払っていて、この場に居るのは紅と阿散井と白哉だけだ。
阿散井は事情を知る数少ない人間の一人なのだから、問題はないだろう。
紅が白哉の後妻であると言う事を知る人は、意外に少ないのだ。
「行って来ます」
二人を部屋の中へと残し、紅は執務室を後にした。
死覇装の帯を解き、普段着へと着替える。
きちんと襟元まで調え、結った髪を解いた所で、部屋の外から声をかけられた。
「奥様。旦那様がお帰りになられました」
「…すぐに参りますとお伝えしてください」
襖に背を向けながらそう答えつつ、早いな、と思う。
彼が帰ってくるまでは、もう少し時間がかかるだろうと考えていた。
何かあったのだろうか、と悩んでいた紅の耳に、楽しげな侍女の声が聞こえてくる。
「奥様、料理人が今日の夕食はいつも以上に腕を揮っておりました」
期待してくださいませ、と言い残し、漸く去っていく足音が聞こえた。
紅は彼女の残した言葉に動きを止め、首を傾げる。
「…今日…何かあったかしら…」
思い出せない、と呟く。
彼の所に嫁いだ日は数十年前の今日と言う日ではない。
彼の入隊記念日と言うわけでもないし、それ以外の記念日でもなかったはずだ。
どれだけ考えても答えには辿り着くことができず、紅は無意味に時間を過ごす。
不自然に止められた手は、死覇装を畳む動きの途中で行動を放棄していた。
「―――紅」
「は、はいっ!!」
外からの声に驚いたように身を震わせる。
バッと顔を上げれば、いつの間にか開かれた襖の所に白哉が立っていた。
何故、と思うのと同時に、ハッと我に返る。
畳んでいる途中だった死覇装を隠すように籠にいれ、すみません、と謝罪した。
「お迎えもせず、申し訳ありませんでした」
「構わぬ」
静かにそう答えた彼は、ふと室内に視線を巡らせる。
そして、最後に彼女を見据えた。
そんな白哉の行動に疑問を抱く彼女を見下ろし、スッと腰を折る。
「び、白哉…様?」
首元を掠めるように顔を近づけられた時の驚きと言ったら―――本当に、心臓が口から飛び出すかと思った。
目を丸く見開く彼女の心中の慌て様など、どこ吹く風と言った様子で、白哉は姿勢を戻す。
「…梅か」
「梅?……あ…」
呟かれた彼の言葉に、その行動の意味を理解した。
動く度にふわりと香るそれは、瀞霊廷の一角でひっそりと咲いていた梅の匂いだ。
自然なそれは既に鼻に慣れてしまっていて、忘れていた。
彼に言われ、漸くその存在を思い出した紅は、今朝のことを説明する。
邪魔をするでもなく聞いていた彼は、彼女が口を止めた所で、庭先へと視線を向けながら口を開いた。
「気に入ったならば、庭に梅の木を用意させても構わぬ」
「いいえ、この時期は椿が綺麗ですから」
必要ないと首を振る彼女に、無言で頷く。
そして、思い出したように彼女へと視線を戻した。
「用意が整ったら離れに来るといい」
「これを片付けたら他に用事はありません」
「そうか」
頷いた彼の目線が促す内容を悟り、彼もまた、紅がそれを悟ったのを理解して部屋に背を向ける。
死覇装の一式を綺麗に折りたたんだそれを籠に残し、近くで待ってくれていた侍女に頼んでおく。
そして、先を歩いている白哉の背中に続いた。
色鮮やかな料理の数々に、思わず目を見開く紅。
未だに何の日なのかがわからないといったら、白哉はどんな反応を見せるのだろうか。
そう思いつつ、何かに惹かれるように視線を向けた料理の向こう―――庭先に、美しく咲く椿が見えた。
「――――あ…」
鮮やかに咲く椿を見て、唐突に気付く。
もう数十年も前のこの日―――紅は、白哉と出会った。
白哉がこの用意をさせたと言うことも驚きだが、何より…彼がこの日を覚えていたことが、驚きだった。
襖の所から動けずに居る紅を見て、彼は本当に小さく表情を緩める。
「私が覚えていたことは、そんなに意外か?」
「白哉、様…」
「尤も…紅は忘れていたようだが」
一体何度驚かされればいいのだろうか。
白哉の言葉はそれだけの制止力を持って紅の鼓膜を振るわせた。
「忘れていたわけでは―――」
ないが、今日と言う日がすぐに一致しなかったのは事実だ。
まさか白哉が覚えていると思わなかったという事情は、言い訳でしかない。
彼は、申し訳なさそうに肩を落とす彼女を見て、足音も無く近付いてくる。
そして、卓上の飾り皿の上に載せられていた椿を手に取った。
彼の手に握られたそれは、庭先のものと同じ椿のようだが、その中でも一際美しく咲いているものだ。
暫しそれを見つめ、スッと腕を伸ばす。
その先に居たのは紅で、伸ばした手に握られていた椿が彼女の黒髪へと差し込まれた。
「…今となっては言い訳に聞こえるかも知れぬが…。今日まで、忘れていたわけではない」
ゆっくりと紡がれる言葉。
紅は全身の意識を集中させ、その声を聞く。
「毎度重要な任務が重なっていたとは言え、すまぬ事をした」
「―――――」
言葉はおろか、声を発することすら難しかった。
代わりに零れ落ちたのは、頬を伝う涙だけ。
「…ありがとう…ございます…」
頬へと滑り込んだ彼の手。
泣くなと言うように涙を拭ってくれる指も、今は無意味だ。
けれど、もう少しだけ。
この幸せすぎる想いを涙として表現することを許して欲しい。
そっと、白哉の手に触れた紅のそれは、拒まれることなく彼の体温に溶けた。
Thank you 3,000,000 hit!!
09.02.12