敷かれた布団をずるずると部屋の隅まで引っ張っていくと、その上に腰を下ろす。
本来ならば掛け布団の下に身を滑り込ませ、眠りの世界へと向かう準備をしなければならない時間。
しかし、紅の瞼は、それはもう元気に見開かれていて、暫くは落ちるなんて事はなさそうだ。
この時代の朝は早く、寝なければ翌日に差し障ると言う事は分かっているのに、眠くない。
眠気よ来い!と意気込んだ所で来るものでもないのだから、こればかりは仕方がないだろう。
肌を締め付けない浴衣に身を包んだまま、開けっ広げた襖から夜空を仰いだ。
「んー…雲が掛かってて勿体無いなぁ」
誰も聞いていないのをいいことに、そんな事を呟く。
折角の綺麗な月は、半分ほど白い雲に覆われている。
その雲自体はそう分厚いものでもなく、天候が悪くなる事はなさそうだけれど。
詰まらなさそうに溜め息を吐き出したところで、紅はふと視線を部屋の中に巡らせる。
「?」
人の…いや、よく知る気配を感じた。
しかし、その姿は当然のことながら室内には見えない。
今も確かに感じることが出来ているけれども見えず、でもそう遠くはない位置。
少しだけ考えるように首を捻ってから、紅は布団から立ち上がって縁側へと歩く。
座っていた時に乱れた裾を整えながら庭先を一瞥して、それから縁側の下に置いてある草履に足を付く。
そうして庭先に降り立つと、そのまま真っ直ぐに進んでから、今しがた自分が居た部屋の屋根を見た。
そこに人影はない。
けれども、隣の部屋の上辺りに、その人を見つけることが出来た。
「何をなさっているんです?」
庭先に出たまま、そう問いかける。
気配を読み取る事に長けた紅に配慮して、彼女の部屋の付近は空き部屋になっている。
夜ともなれば暗黙の了解として出入りが禁じられているほどだ。
そんな場所に訪れる事ができる人物と言えば、この城の中では本当に限られている。
「やっぱり起きてたか」
「こんな時間に起きていたら明日に障りますよ」
「お前も同罪だろ?…来いよ。いい場所に連れて行ってやる」
声の主は紅が起きていると踏んでやってきたらしい。
やれやれ、と肩を竦めてから、紅は周囲を見回した。
来い、と言われたがどうやってあそこまで行くか―――そう考えた故の行動である。
そんな彼女に、彼―――政宗はくいと親指で庭先の木を指した。
樹齢数十年と思しきその立派な木は低い位置にもよく枝を伸ばしていて、木登りには丁度良さそうだ。
それを見とめると、引っ掛けたままだった草鞋の尾を解けないように結ぶ。
そして、動きにくい筈の浴衣姿のまま器用に木の枝から枝へと移った。
最後に屋根に伸びている太い枝に乗ったところで、その視界に伸ばされた手が映り込む。
「ありがとうございます」
そう声を掛けながら、その手を借りて音もなく屋根へと移動した。
浴衣であることを感じさせない軽い動きに、彼は小さく口笛を吹く。
「流石だな」
「させる政宗様も政宗様だと思いますけれどね」
「…違いねぇ」
彼の独眼が柔らかく微笑むのが月明かりの下でも鮮明に見えた。
それに見惚れる暇を与えず、彼は足元に置いていたものの一部を紅の腕に乗せる。
「…月見でもなさるおつもりですか」
杯と徳利一つを渡された紅は、腕の中のそれを見下ろして呟く。
よく分かってるじゃねぇか、と言う返事の後、彼は付いて来いとばかりに背を向けた。
戦場で見る青い着衣ではない着流しの背中を追って、紅も歩き出す。
屋根の上と言う不安定な場所であるにも拘らず、まるで地面を歩いているようにしっかりとした足取りの二人。
数秒だったか、数十秒だったか。
そう長くはない時間移動してから、政宗は徐にその場に腰を落とした。
促されるようにして隣に座った紅は、黙って彼の言葉を待つ。
そんな視線に気付いたのか、彼は苦笑を浮かべた。
「おいおい。俺の顔ばっかり見ててどうすんだ」
そう笑いながら、顎で「そちら」を指す。
それに吊られるようにして視線を動かした紅は、視界に入り込んだ風景に思わず感嘆の声を零した。
「う、わ…」
移動している間は彼についていく事と足元に気を配らねばならず、そこから見える光景に目を向ける余裕はなかった。
今眼前に広がっている風景は、この世のものとも思えない神秘的な夜空。
左側から詰めてくる山と、右側から詰めてくる山。
その谷に吸い込まれるように、星々が瞬いて道を作る。
口で説明することの出来ない美しさが、そこにあった。
「ここからだと何も邪魔するもんがねぇんだ。綺麗だろ?」
すでに自身で酒を注いだ杯を傾けつつ、政宗はそう問いかけた。
声もなくコクコクと何度も頷く彼女に、彼は静かに口元を持ち上げる。
ここまで感激されれば、態々夜更けに木登りをさせて連れて来た甲斐もあるというものだ。
何度も月を見上げる姿を見ていたから、彼女が夜の空を好んでいる事は知っていた。
数年前に見つけたこの場所をいつかは教えてやろうと思っていたのだが、きっかけがない。
きっかけを求めていても仕方がないと、ふと思いついた今日と言う日、彼女をここに連れて来たのだ。
「飲むか?」
そう問いかけるが、彼女は頭を振った後はまた空へと視線を戻す。
その射抜くようで、それで居て優しい彼女の眼差しがこちらを向かない事はどこか味気なさを感じさせる。
だが、その横顔が子供のように輝いているのを見て、そんな考えはすぐに消え去った。
「…こんなに美しい空の下に居て、人は血を流さなければならないんでしょうね」
ポツリと、紅は小さくそう言った。
暫し無言だった所為か、久々に紡がれた内容を噛み砕くのに少しの時間を要する。
それから、彼は肩を竦めて半透明のそれを呷った。
「幼い子供の笑顔だったり、この美しい夜空だったり…綺麗なものを見ると、ふと考えてしまいます」
自分はなんて汚れてしまっているのだろう、と。
必要であったとは言え、すでに血を浴びた己の両の手は、見下ろす事すら憚られてしまう。
政宗はそう言って寂しそうに微笑んだ彼女の横顔を見てから、その視線の向かう先を見つめる。
「―――…誰もが飢えに苦しむことなく、笑って暮らせる世を作る」
静かに紡がれる彼の想いに、紅は漸くその視線を動かした。
初めて聞くその想いが静かに、しかし確かな足音と共に紅の心へと入り込んでくる。
「それが、俺の…夢だ」
「ゆめ…」
あぁ、それが彼と言う人を動かしていたのか。
心のどこかで、そう納得する自分が居る。
「争いは争いを生む。だが、争いの先にしか見えない未来もある。要は、そう言う事だろ」
「戦が…必要だから?」
それは矛盾しているようで、でもどこか理にかなっている。
紅の問いかけに、政宗は頷いた。
「夢を…。私も、政宗様のように、大きな夢を抱くことが出来るでしょうか」
「何小せぇこと言ってやがる。出来るか悩む前に、やっちまえ」
そう言って破顔すると、彼は紅の頭をガシガシと撫でた。
戸惑ったようにと言うよりは半ば条件反射的に声を上げる彼女に、彼は笑う。
「抱く夢がないなら、これから見つけりゃいい。それまでは…お前に同じ夢を抱かせてやるよ」
スルリと腕が引いていくと、紅はぐしゃぐしゃになった髪を整える。
その合間に聞こえた言葉に、髪を整え終えるのも待たずに顔を上げた。
彼女の視線を迎えたのは優しく、けれども強い笑みだ。
「折角人がいい場所に連れて来てやってんだ。もっと楽しめよ」
「…はいっ」
悩むのはいつだって出来るけれど、この風景は今だけのもの。
今はただ、この風景に酔う事だけを考えよう。
「政宗様」
「ん?」
「ありがとうございます」
先ほどまでの哀しい表情など忘れたかのように、彼女はただ純粋に微笑む。
その言葉に何かを返す事はなく、空になった杯を彼女へと差し出した。
それと政宗を交互に見てから、あぁ、と自身の脇に置いていた徳利に手を伸ばす。
そこから半透明の酒を注げば、波紋を広げる水面に月が映り込んだ。
邪魔していた雲はいつの間にか姿を消していて、見上げた紅の目にも丸い月が光る。
ふと、紅は最初に抱いた疑問を今更に思い出し、政宗へと投げかける。
「時に…何故、私が起きていると?」
「そりゃ、お前…。昼間あんだけ寝てりゃ寝れねぇだろ、普通」
「昼間…って!知って…!?」
ハッと思い出した紅は、その頬を朱に染めつつ口元に手をやった。
あまりにも天気が良くて、でも風は心地よい温度で。
縁側でお茶を飲んでいた紅は、いつの間にか転寝をしてしまっていたのだ。
「見られていたなんて…」
「偶然通ったからな」
「あ、なら、もしかして…部屋の中に運んでくださったのは政宗様ですか?」
「………まぁな」
うわぁ、なんてことをさせてしまったんだ。
ボンと爆発しそうになる脳内を必死に落ち着かせていた紅。
彼女は、政宗の言葉がどこか煮え切らないものであった事に気付かなかった。
そう。
いつの間にか寝てしまっていた彼女を運んだのは、彼も言ったように政宗本人だ。
少し先の軍議の話をするために紅を探していた彼が見つけたのは、それはもう心地良さそうに眠る彼女。
起こすのも憚られるほどによく眠っていた彼女に、彼は苦笑した。
「こんな所で寝てたら風邪引くぞ」
そう声を掛けてみたものの、もちろん起きる気配はなく。
数秒悩んでから、その身体を抱き上げて部屋の中へと移動させた。
起きていたならばきっと騒がしかったのだろうが、本人はぐっすり夢の中。
何の問題もなく彼女を運び終えた彼が去ろうとした時、問題は起こった。
彼女の指先が政宗の着物の袖を絡め取ってしまったのだ。
引き剥がす事もできるが、穏やかな寝顔を見てしまえばそれも出来ない。
「しかたねぇなぁ」
そう苦笑しながら、彼は彼女の隣に腰を落ち着けたのであった。
これだけならば、彼がその事実を告げるのに躊躇う必要はどこにもない。
だが、この話にはまだ続きがあった。
「政宗様、そろそろ戻りませんと、明日に障るのでは?」
「…問題ない」
「問題ない…んですか。まぁ、私は構いませんが…」
完全に納得したようではなかったが、紅は彼が言うならば、ともう少し夜空を楽しむことを決める。
そんな彼女の横で、政宗は心中で苦笑を零す。
あまりにも気持ち良さそうに寝ていた彼女に釣られて、自分も軽い睡眠を貪ってしまったなど。
「(…言えねぇよなぁ?)」
心の中でそう呟いて、自身の口角を持ち上げる。
真相は彼の心の中に沈められた。
瞬を駆ける星と共に
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07.06.05