雪耶紅と言う人間は、一見するとごく普通の少女だ。
見た目からして明らかに何かの武術を極めた有段者、と言う事もなく、どちらかと言えば線は細い。
それなりに運動して引き締まった身体、などと言い訳したとしても、十分に通用するだろう。
だからこそ、警戒されにくい。
強いか弱いかで言えば弱く見え、守らなければならない対象と言う認識が強い。
彼女の眼差しの強さを前に、あなたを守るとはっきりと告げるには、相当の自信が必要だろうけれど。
紅の今の状態と言えば、その彼女の外見が大きくいい方向へと運んでくれていた。

「あのー…助言をさせていただきますけど…逃げた方がいいですよ、皆さん」

部屋の隅に置かれたやや古いベンチに腰掛けながら、紅は控えめにそう声を掛ける。
誰かの耳に届けるつもりがあるのかと問いたくなるほどに小さな声だ。
当然のことながら、興奮する「彼ら」には届かなかった。
場所は、何かの倉庫のような所。
地理に詳しいわけではないから名前までは分からない。
けれど、風紀委員の基礎知識としてあの辺りだろうなという予測は立っている。
不良が屯する場所は結構限られていて、紅の記憶で覚えられないほど多くはないのだ。
そんな、すでに使われていない倉庫の中、彼女は手足の自由を奪われるでもなくベンチに座らされていた。
見張られているわけでもないので、恐らく立ち上がっても気付かれないと思う。
紅がこの場所に連れてこられてから、まだ一時間も経っていないだろう。
放課後の時間を利用して風紀委員の下っ端と共に町中に出ていた彼女。
ふと一人になった瞬間に、後ろから妙な薬を嗅がされここに連れて来られたと言う訳だ。
因みに、クロロフォルムと思われるその薬だが、紅は耐性をつけてあるので意識を失うまでは至っていない。
とりあえず身体が動かしにくくなる程度の影響は受けるので、気を失っていると思わせて大人しくしておいただけだ。

「並中の風紀委員を呼び出す餌になってもらうぜ」

今しがた目を覚ました(ふりをした)紅に、ボスと思しき一人がそう言った。
どこかで見た顔だと思ったら、雲雀に渡されたどこかの中学の不良を纏めている頭だ。
怯えるような仕草を見せつつ、そんな事を考える。
処理するのは風紀委員の彼ら…もとい、雲雀が来てからにしようと決める。
そう判断してからの紅の行動は迅速だった。
初めは怯えるように風紀委員との無関係を言葉の端々に乗せる。
それに食いついた所で、目線を下に落として表情を隠しつつ、こう続けた。

「風紀委員の方たちに強制的に委員会に入れられて、こんな物まで…」

少し声を震わせてそう紡ぎながら、自分の肩にかかる学ランを指す。
不良と関わりあうような人間には見えず、寧ろ正反対の外見である紅。
だからこそ、その頼りなく震える様は、酷く不良たちの同情を集めた。

「俺達が解放してやるから泣くな!」

あまりにも上手くことが運びすぎて、逆にそれが笑いを誘う。
堪えなければと思うのだがそれも難しく、肩が小刻みに揺れてしまった。
しかしながら、そんな反応すらも「俺達の言葉に感激して涙する女子生徒」に見えたらしい。
思い込みと言うのは、実に素晴らしい。
笑いの発作が落ち着いた頃にはすでに不良らの意識は「打倒並中風紀委員」に向かって燃え滾っていた。
俯く彼女が、ぺろりと舌を出していた事など、誰も気付いていない。

「…楽勝、ね」

マフィアを相手に同じことをできるだけの演技力も実力も持っているのだ。
そんな彼女に、一中学の不良が敵う筈もない。















GPSと言う便利な機能の付いた携帯が普及する現在。
それがついていないものを探す方が難しい時代になってきている。
風紀委員の連絡用にと一応渡されていた携帯にも、同じくその機能がついていた。
そしてその携帯、実は不良らに気付かれなかったらしく、今の紅の胸ポケットに入っている。
もちろんいつでも連絡が取れるようにと、電源は入ったままだ。
音は…確か消してあった筈。

「もうすぐだと思うんだけどなぁ」

高い天井を見上げてそう呟いた。
日の高さから考えても、そろそろだと思う。
自分が消えたことに気付いていないとは思わないし、気付いた下っ端が雲雀に連絡を通さない筈もない。
そうなれば、彼の思考は自然とこの結論へと達するだろう。
不良らが紅のために打倒風紀委員と燃えている状況までは予想できていないにしても。
そんな事を考えながら倉庫の真ん中であれこれと計画を練っている彼らを見る。
その向こうに見える入り口の鉄製の扉が吹き飛んできたのは、それから僅か3秒後の事だ。






「…何だ、君達か」

派手な登場シーンを見せた雲雀は、倉庫の真ん中で自分の方を向いている中の一人を見てそう呟く。
詰まらなさそうなその声に、不良の頭と思しき彼が何かを怒鳴る。
それに応えるように周囲を囲っていた連中も一気にいきり立ち、その場を一触即発の空気が包んだ。

「邪魔だよ」

面倒そうな雲雀の声を皮切りに、その緊張が弾けた。
ベンチ自体は倉庫の隅に置かれているので、乱闘に巻き込まれる事はない。
時折聞こえてくる「あの子」や「解放しろ」なんて言う言葉に苦笑しながら、紅はゆっくりと立ち上がった。
そろそろこの騒ぎも、雲雀の勝利で幕を閉じるだろう。
そう思った矢先の事だった。

「この女がどうなってもいいのか!?」

ぐいと力強く腕を引かれたかと思えば、片腕を拘束されて頬に冷たい何かを当てられる。
それがナイフだと判断するのにさほど時間は要らなかった。
悪いな、小さくそう耳元で告げられ、紅は静かに息を吐き出す。

「具体的に、どうするつもり?」

近くに居た一人をガツンと殴り倒してから、雲雀がそう尋ね返す。
は?と間の抜けた声が紅の後ろに立つ彼から発せられた。

「こ、この女の顔に傷がついてもいいってのか!?」
「…だそうだよ」

どうするの、と言う言葉は無かったけれど、代わりに彼の目がそう言っていた。
もちろん、その言葉は不良に向けられたものではないのだが、彼は自分に向けられたのだと思ったようだ。
意味が分からないその返事に、困惑の色がその雰囲気から読み取れた。
潮時―――そう悟るのに、時間は必要ない。

「困りますね。顔に傷なんてつけられた日には、原因が五体満足ではいられないでしょうし」
「お、おい?」
「世の中、疑うことも必要ですよ」

頬に添えられていたナイフを指先でどかせると、紅はクルリと振り向く。
そこに見惚れるような笑顔が浮かぶのとほぼ同時に、鳩尾に衝撃が走った。
声もなく膝を折る不良の腕を難なく抜け出すと、頬に触れてきた髪を耳に掛ける。

「えげつないね、君も」
「全員を伸した人の台詞じゃありませんね」

スタスタと自分の元に歩み寄ってきた紅に対して雲雀がそう笑う。
肩を竦めながら答えると、彼女は彼の足元に居た不良の頭を見下ろした。

「お、お前…無理やりだったんじゃ…」
「殆ど強制でしたよね?入った時点では」

同意を求めるように雲雀に向けて首を傾げれば、それがどうしたと言いたげな視線を返してくる。
二人の遣り取りに、彼は漸く理解した。
紅は無理やりに風紀委員に入っていたわけではない―――つまり、自分が騙されたのだと。

「この野郎…!」
「私は野郎じゃありません。…まぁ、この辺を荒らしたことが運のつき、ですね」

諦めてください、と告げたその声は届いていただろうか。
腹にめり込んだトンファーに、少し難しかったかもしれないな、と思う。
ぐるりと周囲を見回し、全員の意識がないのを確認すると、紅は再び肩を竦める。
紅は胸ポケットから携帯を取り出すと、番号を三つ押してから通話ボタンを押す。

「―――怪我人が25名ほど。場所は…」

どこですか?と雲雀に視線を向ける。
その視線に気付くと、彼は短くその倉庫名だけを答えた。
それを携帯に向けて繰り返すと、まだ話が途中であるにも拘らずそれを切ってしまう。

「救急車の手配、完了です」
「別に必要ないのに」
「そう言うわけにも…。騙した上に放置なんて、流石に出来ませんよ」
「大方、勝手に勘違いしたんでしょ」

そう言いながらトンファーについた血を振り落としつつ歩き出す雲雀。
それに続くようにして、紅もまた少し駆け足に歩き出す。
雲雀は隣に並んだ彼女を横目でチラリと見てから、今しがた着信音を奏でだした携帯に出た。
彼の声しか聞こえないから会話の内容ははっきりとは分からない。
通話はものの20秒ほどで切れた。

「風紀委員の連中が心配してるらしいよ」
「あ、そうですね。見回りの途中でしたから…。あとで連絡しておきます」
「その必要はないね。今説明しておいたから」
「あら、ありがとうございます。珍しいですね」

そんな風に気を回してくれるなんて、と笑うが、彼からの返答は特にない。
この後もそれに対する返事が聞ける事はないだろうと、早々に頭を切り替える。
こうして会話が成り立っているのだから、それだけでも十分だ。

「どこに行くつもり?」

倉庫を出てから右に行こうとした紅は、そんな声に呼び止められた。
声の主は倉庫を出たところでまだ立ち止まっていて、身体はどちらかと言えば左に向いている。
彼と自分が進もうとした道を交互に見てから、あれ?と首を傾げる。

「並中、こっちじゃありませんでした?」

まだ地理がつかめていなかっただろうか、と頭の地図を捲る。
そんな彼女に溜め息を一つ吐き出してから、雲雀は左の道を歩き出した。

「歩いて帰りたいならそうしなよ」

告げられた言葉に数秒悩むも、回転の良い頭はすぐに意味を理解する。
そして、クルリと踵を返して、足早に彼の背中を追った。
横まで追いつくと、速度を戻した彼女に、雲雀は一瞥をくれる。
それからすぐに視線を戻して、代わりに唇を開いた。

「その足…」
「足…?あぁ、どこかで擦ったんですね」

素足の膝辺りに、軽い擦り傷が出来ている。
特に痛みもなかった所為で、彼に言われるまで気がつかなかった。

「他に怪我は?」
「ありませんよ。丁寧に扱ってくれたみたいですから」

大丈夫です、と笑って答えれば、そう、と短い返事が届けられる。
そんな彼を見て、紅は嬉しそうに笑顔を浮かべて言った。

「ありがとうございます」

心配してくれて。
言外にそう含ませれば、彼の視線がまた一瞬だけこちらを向いた。
すぐに逸らされて、視線が絡んだのは僅か数秒の事。
それでも、紅には嬉しかった。
それからすぐにバイクに到着すると、一声もなく突然投げられたヘルメットを難なく受け取り、装着する。
すでにバイクを跨いでいた彼の後ろにお邪魔して、慣れた…とは言いにくい手つきで彼に腕を回した。

滑り出しは好調。
スピードを上げていくバイクの後ろで、紅はすれ違った数台の救急車に思わず苦笑を浮かべた。






そんな彼らの日常生活


Thank you 2,000,000 hit!!

07.06.04