ぺたり。
ペンを走らせていた蔵馬の手元の紙に、小さな手が現れた。
位置的に言えば、今まさに文字を並べようとしていた場所で、蔵馬はその行動に思わず苦笑する。
例えばこれが部下の一人の行動だった日には、その部下は明日の日を拝めるか微妙な所だ。
最近は少しだけ丸くなった、と評判のお頭だから、もしかすると拝む事くらいは出来るかもしれないが。
しかしながら、ぺたりと可愛らしい音と共に乗ってきた手は部下のものではない。
払いのける事もできなければ、部下のようにやや乱暴に扱うなどもってのほか。
さて、どうしたものか…。
ペンを手に持ったまま手の主を見下ろす彼。
彼の思いを理解しているのか、いないのか―――手の主は楽しそうにその紙の上で何度も手を上げ下げする。
お茶を持ってきた紅が目にしたのは、そんな二人の様子だった。
息子の扱いに困っているらしい蔵馬に、紅は思わず苦笑を浮かべる。
もう付き合いも数年になると言うのに、まだこれだ。
そろそろ慣れてもいい頃だとは思うのだが…子供と付き合った記憶のない蔵馬からすれば、難しいのだろう。
「暁斗、こっちにいらっしゃい」
手に持っていたものを机の上に移すと、紅は膝を着いて暁斗を呼んだ。
紙から手を招く母親の元へと興味を動かされ、頼りない足取りで歩いていく息子。
広い机の前に腰掛けながら、その光景を眺めていた蔵馬はふぅ、と息を吐き出した。
少し前かがみになった拍子に頬に流れてきた銀糸を背中へと払えば、彼の耳がピクリと動く。
慣れない…何年経っても、未だに子供と言うものがよくわからない。
調略に長け、冷酷無慈悲とも謳われる妖狐蔵馬の名が聞いて呆れるものだ。
蔵馬は自分自身に向けた苦笑を口元に浮かべる。
「蔵馬」
不意に、紅の声が自分を呼ぶ。
声に応えるように顔を上げた彼を見下ろしていたのは、腕に暁斗を抱いて微笑む紅だった。
それから、彼女は何も言わず、そして何も言わせず問答無用で暁斗を蔵馬の膝の上に乗せる。
「…紅?」
軽すぎる体重を膝の上に感じ、咄嗟に不安定にならないようにとその身体に腕を回す。
戸惑いながら見上げてくる蔵馬に、紅は微笑みを深くした。
「これの結果報告書は私が纏めておくわ。だから、少しの間暁斗を宜しく」
「いや、そっちを俺が…」
「妖狐蔵馬ともあろう者が、息子から逃げないで」
痛いところを突かれた。
口を噤む蔵馬に、紅は笑みを少しばかり困ったそれに切り替えてから、もう一度唇を開く。
「私はこの部屋にいるから」
何があっても大丈夫なように、声の届く位置に居る。
それを明確にしたお蔭か、彼のほんの少しだけ眉間に寄せられた皺が和らいだ…気がする。
それにクスリと笑うと、紅は彼の膝の上で首をカクンカクンと左右に揺らしている暁斗の頭に手を置いた。
彼に目を合わせるように腰を屈め、にこりと笑う。
「暁斗。暫くお父さんに遊んでもらいなさいね」
「はい!」
元気な声が返って来ると、紅は満足げに微笑んでから机の上に広がっていた紙を集めて部屋の隅へと歩いていく。
そこには蔵馬の前に置かれているものよりも一回り小さい机が置かれていた。
椅子に腰掛けると、紙を前に置いてから彼らの様子を見る。
何を期待しているのか、ピンと立った耳とゆらりゆらりと揺れる銀色の尾。
じっと見つめる姿を見ていると、目は口ほどにものを言うと言うのも頷ける。
それを前に無言のままで肘掛に肘をつき、そこに顎を乗せたまま見下ろす蔵馬。
その表情と言えば、お世辞にも我が子を愛でているとは言いがたい。
恐らく、ここに部下の一人でも居たならば、足音を忍ばせて紅の元へと歩み寄り、そしてこう問うだろう。
「暁斗様は何か怒られてるんですか?」と。
無表情のままに眉間に皺を寄せて暁斗に視線を落とす彼を見れば、誰だってそう思う。
現に、紅自身もやれやれと苦笑と共に溜め息を零したくなったほどだ。
ここでそれを零そうものなら、確実に彼らの耳に届くから何とか飲み込むけれど。
対して、暁斗の方はそうは思っていないらしい。
普段からお頭として忙しく動く父は、中々自分に構ってくれない。
遊んでもらいなさい、と母から告げられたこの状況は、彼には嬉しい以外の何物でもないのだ。
はぁ、と溜め息を零したのは紅ではなかった。
見詰め合う彼らをいつまでも眺めているわけにも行かなかった紅は、早々に仕事に取りかる。
そうしていた彼女の耳に届いた溜め息に、その視線を持ち上げた。
同時に、こちらを向いていた蔵馬と視線が絡む。
「助けてくれ」
珍しく…非常に珍しく、蔵馬の目がそう語っていた。
思わず自分の目を疑ってしまったほどだ。
「あー…えっと………」
流石に、これ以上放っておくとまずいだろうかと言う気になってきた。
どうしようか…と打開策を考えるが、そこではた、と思いなおす。
これではいつまで経っても変わらない。
「…少し話を聞きたい箇所があるから」
外に行くわね、と一声掛ける。
蔵馬の眉間に1本の皺が追加された。
「………紅」
その声は確かに届いていた。
しかし、紅はそれに対する答えを返す事無く、振り向かずに扉から出て行く。
「あれだけ酷いなら…荒療治も必要よね」
廊下に出た紅は、ドアに向き直る。
それから、手を伸ばしてその脇に掛けてあるプレートをドアの取っ手に引っ掛けた。
「立ち入りを禁ずる」と書かれたプレート。
これが掲げてある時には、何があったとしてもこの部屋に入ってはならない。
親子水入らずの所を邪魔させてはならないと言う紅のささやかな計らいだ。
この場合、蔵馬にとってはそれは意地悪に近いのだけれど。
「それにしても…あそこまで苦手だなんて…意外だわ」
何でも卒なくこなしてしまう蔵馬だからこそ、別に問題もなく接するのだと思い込んでいた。
あの期待に満ち溢れた目を見つめ続けられるのは、紅からすれば拍手したくなるくらいだと言うのに。
「あれ、佐倉はん?ドアの前で何してはるんです?」
不意に、女性の声が紅へと届く。
片腕に書類の束を抱えた妖怪の彼女は、紅の部下の一人だ。
「何でもないわよ」
「そうですか?あ、今立ち入り禁止なんやね。お頭に次の仕事の見取り図届けに来たんやけど…」
「私が預かるわ。今、中に入られると困るの」
「ほな、お願いしますわ。中で何してはるんです?この時間にプレートがかかるんは珍しいですやん」
そう首を傾げた褐色の肌の彼女に、紅は苦笑を浮かべながら彼女を歩くよう促す。
ここに居れば、いつまで経ってもその気配が気になってしまうだろう。
そうして彼女と並んで廊下を歩きながら、紅は立ち入り禁止の理由を語った。
「お頭も不器用なトコあったんですねぇ」
「難儀な事よ。自分の息子なのに」
「加減が難しいんちゃいます?ほら、子供ってこう…持ち上げただけで潰れてしまいそうですやん。
それを防いでるんやと思えば、うちらに接するみたいにしはらへんだけええと思いますけど」
「…そうかもしれないわね」
「その内扱い方を覚えてちゃーんとやらはりますって」
だから大丈夫です!と胸を張る彼女に、紅はクスリと笑った。
暇つぶしに付き合ってもらったことに感謝のそれを述べると、紅は元来た道を戻る事にする。
あまり長い時間掛けると、逆効果にもなりかねない。
また結果教えてくださいね~、なんて言う暢気な声に見送られ、その場を後にした。
「………まぁ、打ち解けたならそれはそれでいいんだけど…」
額に手をやりながら、紅はそう言った。
ドアに入るなり飛び込んできたのは、何やら涙目で傷だらけの暁斗。
彼は悔しそうに唇を噛んでいて、紅が入ってくるのを見るなり彼女へ腕の中へと飛び込んだ。
その後ろで蔵馬のこめかみに青筋が立ったように…見えるのは、気のせいだろうか。
とりあえず腕に飛び込んできた暁斗をよしよしと宥めながら、蔵馬に問いかける。
「何があったの?」
紅の質問に答える前に、蔵馬はガタンと椅子を動かして立ち上がる。
そして壁に添えつけられている不気味なそれ(因みに人間界で言うならば室内用通信機)に向けて口を開く。
「日が暮れるまでに暁斗の部屋にベッドを運んでおけ」
それだけを言うと、さっさと通信を切ってしまう。
意味の分からない言葉に首を傾げる紅と、明らかに理解して眉を潜める暁斗。
「…と言うわけだ。諦めろ、暁斗」
そう言うなり、彼は紅の元まで歩いて暁斗を引っぺがす。
そして、そのまま首根っこを掴んでドアの所まで行き、ぽいと放り出した。
バタン、とドアを閉じ、ついで鍵まで掛けてしまう。
よく分からないけれど、とりあえず暁斗を放り出したかったのだという事は分かった。
「あの…蔵馬?」
「あれは今日から一人部屋に移す。寝室には入れるなよ」
「それは構わないけれど…随分と急ね。理由を聞きたいわ」
「今までは加減が分からなかったが、多少乱暴に扱っても壊れそうにないからな。これからはそのつもりで行く」
会話が成り立っているのか、成り立っていないのか。
判断は難しいけれど、紅は部下の女性の考えは正しかったのだと納得する。
要するに、蔵馬なりの扱いを覚えたと言う事なのだろうが…。
何をどうして、暁斗を一人部屋に移すことに繋がったのかは不明だ。
聞いたところで彼が口を割るようにも思えない。
かと言って、暁斗本人に聞くのも如何なものか。
少しだけ悩んだ後、結局何も聞かずに様子を見ようと思い、持ち出していた書類を蔵馬に差し出した。
因みに、一人部屋に移された原因は、暁斗の延々と続いた「紅の話」だ。
例え息子であったとしても、人の口から紅のことをあれやこれやと語られるのは気に入らないらしい。
初めこそ耐えた蔵馬だが、その我慢は僅か数分で限界に達した。
こんなくだらない事が理由なのだと言う事を、紅は知らない。
恐らく、何となく察してはいるだろうけれど。
歩み寄りは山より険しく
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07.06.03