子供は好きだ。
何と言うか、あの頼りない表情で首を傾げられたりしたら、全力で守ってあげたくなる。
悠希はあまり子供が得意ではなかったけれど、彼女もまた、子供に好かれるタイプの人間だった。
二人で遊園地に遊びに行った時に、迷子に捕まったのも今ではいい思い出だ。
―――あの時は服の裾を掴まれていた悠希が大変そうだったなぁ。
そんな風に、現実から逃避するように過去の記憶を懐かしむ。
紅の腰には、まだ10歳くらいの可愛らしい少年がしっかりと抱きついていた。
ぎゅぅ、と掴んで離してくれない腕を振りほどく事は出来ない。
元々、紅は弱者には優しい人間なのだ。
それに加えて、腰にしっかりとしがみつく少年は紅の好みのど真ん中を行く可愛らしさを持ち合わせている。
心を鬼にした所で、その鬼は即座に帰ってしまいそうだった。
「えっと…どこから来たの?」
「部屋…」
「………うん。部屋だね」
顔を出したのは部屋からなのだから、間違ってはいない。
脱力したくなる自身を励ましつつ、紅は柔らかく微笑んだ。
別に苦しいわけではないからこの状態でも構わないのだけれど、この子が誰なのかははっきりとしなければ。
侍女の子供だろうか、などと可能性を探りつつ、部屋の前を誰かが通る事を祈る。
その祈りは、僅か数分で叶えられた。
近づいてくる足音が紅の耳に届き、少年に分からない程度に安堵の息を漏らす。
とりあえず、自分よりも詳しい人が来てくれたならば、それでいい。
その期待を胸に、今開かれたばかりの襖へと視線を投げた。
「…何だ、起きてたのか」
襖に手をかけたままの姿勢で自分を見下ろしているのは、この城の主である政宗だ。
毎朝恒例の鍛錬に来ないから、呼びにきたのだろう。
本来ならば侍女の仕事なのだが、いくら彼女らが声を上げようとも彼は勝手に動いてしまう。
すでに彼女らも諦めているのか、その間に自分の仕事をしてしまおうと言う事になったらしい。
「おはようございます、政宗様」
「あぁ」
短い返答の後、彼の視線は紅にへばりついている少年へと向けられる。
それは何だ、とでも言いたげな視線に、紅は苦笑した。
「実は、部屋を出てすぐに隣の部屋から飛び出してきまして…」
それ以来ずっとこうなのだ、と説明する。
よく分からないけれど、まるで母親に縋り付く子供のように、一向に離れようとはしない。
「隣…?今は確か使われていないはずだろ?」
「ええ。そうなんですけれど…」
襖のところから動いていなかった政宗は、その時になって漸く足を進める。
そうして二人の前に膝を着くと、そっと少年の頭を撫でた。
その手に驚いたのかビクリと肩を揺らしてから、紅の着物から顔を上げる彼。
不安げに揺れる黒曜石のような眼差しが政宗を映した。
「お前、母親はどうした?」
流石に、どこのガキだ?と問う事はなかった。
代わりに、母親の行方を尋ねる彼に、少年は彼を見つめてから紅へと視線を動かす。
その視線に首を傾げつつも、紅は少年に微笑み返した。
「母上ぇ…」
きゅぅ、と少年が再び紅にしがみ付く。
数秒目を瞬かせてから、漸くその言葉の意味を理解する紅。
「………はい!?」
「………お前、子持ちだったのか」
紅の言葉に続けるようにして、政宗の視線が向けられる。
それと共に届いた声に、彼女は勢いよく被りを振った。
「ま、まさか!どなたの子供ですか!」
ありえない、と首を振る紅。
第一、こんな10歳くらいの子供が居るような年ではない。
紅が15歳程度の時の子供と言う事になるではないか。
「こいつが母親か?」
政宗が少年の頭に手を乗せながら、そう問いかける。
今度は顔を上げなかったが、彼は確かにコクリと頷いた。
少年へと向いていた二人の視線が、再度絡まる。
「ち、違います!!身に覚えがありませんから!」
物言いたげな政宗の視線に、紅がそう答える。
半分はからかいが含まれているのだが、生憎否定する事に必死である紅はそれに気付かない。
からかうのはこれくらいにしておくか、と政宗は少年の頭から手を離した。
その時、離れていった手を、寂しげな少年の目がそれを追ったことに、二人は気づかない。
「…だよな。生娘だって事は俺が…」
「政宗様!子供の前で何を言うんですか!?」
否定の際に首を振っていた所為で、頬は赤くなっていた。
だが、それとは明らかに違う種類の赤が頬から耳まで走る。
誰かこの人の口を閉じてくれ、と思うのだが自分は手が出せない上に、少年がしがみ付いていて届かない。
せめてもの抵抗として顔を背けた紅に、彼は喉で笑ってから少年と同じようにその髪を撫でた。
「他の奴に聞けば母親も見つかるだろ」
「そう…ですね」
「一旦連れていかねぇとな…。お前、子供はあやせるよな?」
「大丈夫だと思いますよ。この子、いい子ですから」
ね?と首を傾げて見せれば、彼も同じようにコトンと首を傾ける。
その仕草に紅は思わず小さな身体を抱きしめてしまった。
「可愛いっ!」
「…ご機嫌の所悪いが、動かない事には見つからないぞ」
そうは言うものの、微笑ましい二人を見る彼の眼差しは優しい。
抱きしめるのをやめて少年を立たせると、紅は彼の手を引いた。
今度は素直に抱きつくのをやめて、彼女の手を握る少年。
「母上?どこに行くのですか?」
「お母様の所に連れて行ってあげるね」
「母上は母上です…」
しゅん、と表情を落とす彼に、紅まで同じような表情になってしまう。
慰めるわけではないが、彼の頭を撫でながら歩き出した。
「あなた、凄く格好良いから、きっと綺麗なお母様に格好良いお父様なんだろうね」
「はい。母上は僕の目から見てもお美しゅうございます!」
「そっか。お母様は好き?」
「はい!父上も大好きです。よき当主であり、よき領主であり、よき父上です!」
先ほどまでのしょげていた彼は一体どこへ行ったのか。
そう思ってしまうほどに元気に答えてくれる少年に、紅も自然と笑みを浮かべる。
子供と言うのは正直なものだが、その心が必ずしも正のものであるとは限らない。
無邪気ゆえに道を誤る場合もあるのだが、目の前の彼にはそんな心配は無用のようだった。
目を輝かせて、幸せそうに両親について語る彼に、自分もこんなに素直だっただろうかと思い返してみる。
残念ながら、よく覚えていなかったけれど。
「お前も武門の子か?」
「ぶもん…」
「父親が当主だって言うなら、戦も経験してるだろ」
「戦は終わったと母上が仰っていました」
平和になったんです、と少年はそのくりっとした大きな目で政宗を見上げながら答えた。
その言葉に、紅と彼は顔を見合わせる。
今といえば戦の真っ只中で、日本全国どんな辺境に居たとしても、その話は聞こえてくる。
それなのに、この少年は戦が終わったと母親から聞いているらしい。
果たして、そんな嘘を教える母親が居るのだろうか。
「あ、雀です!」
そう言ってパッと表情を輝かせると、彼は紅の手を解いて縁側を走っていく。
ここならば彼が一人で居たとしても目が届くし、問題はないだろうと判断した紅は急がなかった。
「…妙ですね。戦が終わったなど…」
「………この乱世の最中に、そんな事を教える母親が居るとは到底思えねぇけどな」
「そうですよね。知らないという事は、それだけで危険な事ですから…」
ゆったりと足を進めつつ、二人の視線は少年へと向けられている。
見目秀麗な二人が優しい表情で子供を見守る光景は、侍女の一人でも通ろうものなら即噂になりそうだ。
「母上!」
「私はあなたのお母様じゃないわよ?」
「母上は母上です!今夜も笛を聞かせてくれますか?」
縁側に座って紅を見上げるその目は期待に満ちている。
雀に意識を奪われていたのではなかったのか、とそちらを見れば、すでに小さくなっている鳥の姿が見えた。
あぁ、逃げられたのか、と思ってから、紅は彼に合わせるように膝を着く。
「笛が好きなの?」
「はい!母上の笛は父上も好きだと仰っていました」
綺麗なんです、と彼は太陽のようなあたたかい笑顔を見せる。
この戦乱の世で、このようなあたたかいものを見ると、どうしてもそれが眩しく思えてしまう。
そして同時に、守らなければ、と思うのだ。
「お母様のように上手く吹けるかは分からないけれど…時間がある時にね」
「約束です!」
「笛も出来るのか?初耳だぞ」
「ええ。嗜む程度ですから、政宗様の耳に入れる必要はないかと思いまして…」
話していませんでしたね、そう言いながら、紅はゆっくりと立ち上がる。
だが、その拍子にぐらりと視界が揺れた。
例えるならば貧血のような感覚に、紅の身体は縁側から庭へと身を乗り出す形で傾いていく。
紅、と己の名を呼ぶ政宗の手が届く前に、その視界は暗転した。
「また会いましょう、母上!」
最後にそんな声を聞いたような気がする。
ビクン、と身体が揺れる。
半ば飛び起きるようにして目を覚ました紅は、まるで全力疾走の後のように息を切らせていた。
肌触りの良い布団の上でその身を起こし、白い着物のあわせをかき集めるようにして握る。
「ゆ、め…?」
落下する夢を見て、身体がビクンとなって飛び起きる…こんな経験は誰しもあるものだと思う。
それで目を覚まさないと命が危うい、なんていう話も聞いた事はあるが、そんな事は今はどうでもよい。
嫌な感じではない動悸に、前の壁を見つめ続ける。
はぁ、はぁと息を整えながら、夢の内容を思い出していた。
「あの子は、まさか…」
そんな筈はない、と言う事は出来ない。
現実離れしすぎているだとか、ありえないだとか。
そんな、当たり前の考えは、自分がこの世界に存在している時点で捨て置かなければならない事だ。
漸く息が整ったところで、考えていても仕方がないと、朝の恒例を済ませるべく着物の帯へと手をかけた。
「よぉ、いつも早いな」
「政宗様。おはようございます。―――それは?」
「ん?あぁ、お前にやろうと思ってな。ほらよ」
「……………笛?」
「出来るんだろ?」
「…え……………………えぇ!?だって、あれは夢で…!」
まだ来ぬ明日への想いを乗せて
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07.06.02