「翼。そっちは終わった?」

ひょいとリビングに顔を覗かせた紅に、翼は視線をくれる事無く手元へとそれを固定したまま。
最後とばかりにバッグのチャックを閉じ、漸く顔を上げる。

「今終わった」
「早くしないと、飛行機の時間に間に合わないわ」

そう言ってから、紅は自身の手首に巻いた腕時計を見下ろした。
すでに出発時刻と定めた時間の数分前を指している。

「間に合わないほど時間は詰めてないから大丈夫だよ」

翼はそう答えると先ほど閉じたばかりのバッグを肩に担いだ。
ずっしりと重みを伝えてくるそれは、これから数週間の間に必要な荷物が詰まっている。
と言っても、その半分ほどはすでに向こうに送ってあるのだが。
ここに詰め込まれているものは、そのどれもが前日までは必要で、先に送ることが出来なかったものだ。
重いと言っても眉を顰めるほどでなければ、動けなくなるほどでもない。
普段から鍛えてある彼にとって、この程度の重さは楽に持てるくらいだ。
そうしてすでに廊下の所で待っている紅の元まで歩きながら、リビングを見回す。
入れ替わるようにして紅がリビングへと戻り、ダイニングを抜けてキッチンへと歩いていった。
恐らく、戸締りや火の元の最終チェックに向かったのだろう。
いつもこうして三度のチェックを重ねてくれる彼女が居るからこそ、翼は安心して出かけられる。
紅をその場に残し、先に歩き出した彼は玄関を出た。
すでに前に用意していた車の後部座席にバッグを放り投げ、運転席に落ち着いてからエンジンをかける。
紅が好きだと言っていたクラシックの音楽が流れ出し、空調がやや煩く動き出した。
きつすぎる風を抑えるように調節しながら玄関へと視線を向ければ、丁度彼女が姿を見せる。
ドアが閉じてから一度振り向いて何かをして、それからシンプルなキーホルダーのついた鍵を片手に歩いてきた。
先ほどの行動は鍵を閉めていたのだ。
運転席から助手席の方へと身を乗り出し、ドアを開く。
ありがとう、と一声掛けてから、紅が隣へと滑り込んだ。

「忘れ物はない?」
「俺はね。紅は?」
「大丈夫」

迷いなくそう答えた彼女に、翼は自身の口角を持ち上げて答える。
それから、胸元にさげていたサングラスをかけ、ギアに手をかける。
彼女がシートベルトを着用するのを待って、車を動かした。
好調に滑り出した車はやがてその流れに乗り、アスファルトの上を走っていく。




「それにしても…紅も随分変わったね」

不意に、車を走らせていた翼がそう呟く。
軽乗用車ほどの狭さではないにせよ、車内は声が届かないほどに広くはない。
隣に座っている紅にその呟きが届くのは当然のことだった。

「変わった?」
「昔は飛行機って聞けば逃げ出しそうだったじゃん」

その時のことを思い出したのか、彼はクスクスと笑いながらそう答える。
むっと口を尖らせるも、その言葉は間違いではないので何も言えない。
代わりに少しだけ睨むようにして彼の横顔を見た。
運転中の横顔はそこらのモデルにも劣らないほどに整っていて、見慣れているはずなのにどこか新鮮だ。
盗み見る、と言うほどに忍んでいるわけではないが、彼の注意を削ぐほどではない視線を向ける。
こうしてハンドルを握る彼の横顔を見るのは、紅のささやかな楽しみだったりするのは自分だけの秘密だ。

「紅?」
「あ、ごめん。何?」

紅の沈黙が暫く続いたからだろうか。
顔は前に向けたまま、視線だけを彼女の方へと動かす。
視界の端に慌てた彼女が映るとすぐに前へとそれを戻した。

「人の顔に穴でも開けたいの?」

変な奴、と、紅の不思議な行動など慣れている翼はそう笑う。
気付いていないとは思っていないけれども、こうして行動を言葉にされると気恥ずかしい。
僅かに頬を染めて、抵抗とばかりに翼とは反対にあるウインドウへと顔を向ける。
流れていく風景は、すでに数年間で見慣れてしまったものだ。
今から向かう場所は更に見慣れている…寧ろ、懐かしささえ感じる所。
何か変わっているかな?そう思うと、少しだけ心がわくわくした。

「暁斗が聞いたら喜ぶよ」
「何が―――って、あぁ。飛行機嫌いを克服できた事?」

そう尋ねれば、肯定の返事が返って来る。
その光景をありありと想像できたこの頭の想像力の豊かさには恐れ入る。

「まぁ、ね。でも兄さんも知ってると思うわよ」
「そうなんだ?最近、暁斗はこっちに居なかっただろ。一緒に飛行機に乗る機会もないし…」
「帰るって電話した時に「声が嫌がってないな」って言われたから」

帰省を報告する電話をした時に、暁斗はそう言っていた。
声だけでそれを識別できるあたりには、流石兄としか言いようがない。
口元に苦笑を浮かべた翼に、紅はその時になって漸く視線を前へと戻した。

「中学生の頃は面白かったよね。絶対に好きになんかならない、って自棄になってた」
「今でも好きなわけじゃないんだけど…」

翼の笑いを忍ばせた言葉を聞きながら、紅はあの頃へと記憶を馳せた。














「いや、無理」
「………頷くでも嫌だと言うでもなく、無理って言葉が返って来るとは思わなかったよ」

その返事を聞くことになるような質問を投げたのは翼自身だ。
それはよくわかっている。
だが、返事の内容は彼の想像していた二択からは少しばかり離れたものだった。

「だって…ねぇ?」
「“ねぇ”って同意を求めるような目で見られても、俺は紅じゃないんだからわからないよ」
「うんでもいやでもなく、無理なの」

察してよ、と紅が僅かに唇を尖らせる。
彼女がこうして反応しなければならない翼からの質問は、数秒前へと遡る。

「海外に行くって言ったら、紅は着いてきてくれる?」

唐突にそんな言葉を投げてきた。
一方、投げられた紅は暫し悩む…事もなく、手元の雑誌に落としていた視線を持ち上げるなり先ほどの返事だ。

「海外に着いていくこと自体は問題ないよ。今すぐじゃなくて、将来のことでしょ?」
「まぁ、当然」
「うん。高校さえ卒業できれば…その時に行きたい大学がなければ問題はない。でもね…?」

パタンと雑誌を閉じる。
翼の部屋にある雑誌なんて種類は限られていて、見慣れたロゴの入ったサッカー雑誌の表紙が目に入った。
それを手の中でクルリと大きく丸める。
そして、パカン、とベッドに凭れるように座っている翼の頭を叩いた。

「…何すんの」
「ショック療法」
「………は?」
「海外に行くには飛行機に乗る必要があるって事をお忘れになっているようなので」
「……………あぁ、そう言えばそうだね」

なんてあっさりと呟いた翼に、もう一度だけポコンと雑誌をぶつける。
あぁ、だから無理か、などと納得しているらしい彼を見て、紅は深々と溜め息を吐き出した。

「いっそ、何年も乗らないなら耐えられるかもしれない」
「何年も乗らない…ってのは無理だろうけど、向こうに行ったら暫く乗らないでしょ」
「にしても行く時に乗るのが嫌。態々未知の世界に嫌なものに乗っていくほど自虐趣味はない」

きっぱりと、いっそ清々しいほどにさっぱりそう言い放つ。
さきほど丸めてしまった雑誌を反対に丸める事で癖を取ろうとしている彼女に、翼は瞬きを数回。
それから、声を上げて笑い出した。

「確かにそんな趣味があればすぐにでも止めてるよ」
「でしょ」

雑誌がとりあえず元に戻った事に満足した彼女は、それを布団の上に放り投げる。
それから、ベッドに凭れる翼の首に、後ろから手を回した。

「行きたくないとは言わない。でもね、その時にならないとわからないわ。未来は不確定なものだから」
「紅が飛行機に慣れる未来だってありえるしね」
「…暫くは無理」

少しだけ沈黙してから声を低くしてそう答える紅に、もう一度だけ笑う。
そうして、珍しく甘えるような仕草を見せた彼女も読めるようにと雑誌の角度を変えてから、口を開いた。

「その時になったら、改めて伝えるよ」
「…そうして」
「嫌だって言っても連れて行くけどね」

紅からは得意げに笑った彼の口元だけが見えて、その背後で頬を緩ませる。
嫌なものに乗っていかなければならないとしても、その時が来れば自分はその躊躇いと言う溝を飛び越えるだろう。
いとも簡単に、過去に迷った事が嘘のように。

「外国語勉強しなきゃ」
「出来る奴の台詞じゃないよ、それ」
「ドイツ語?フランス語?あー…今は英語が出来れば結構話せるんだっけ?」
「らしいね。まだ先の話だよ」

そうやって過ごした、何でもない時間の一つ一つが大切だった。















「未来は不確定なものよねー…」
「そうだね。こうして、異国の地で暮らしてるわけだし。紅の飛行機嫌いも大分緩和されたし」
「海外遠征の多い旦那様を持つと大変なんです」
「海外遠征って…半分も連れて行ってないと思うけど?」

そう言って、翼が紅の額をピンと弾く。
すでに目的地についていた車はエンジン音だけを響かせて停車している。
どうやら時間には余裕があるようで、焦って降りる様子は見られない。

「さて…また疲れる旅に出ましょうか」
「あの頃はホントに疲れる旅だったね、色々と。出発前には誰かさんが不機嫌になるし」
「…もう時効だと思って忘れて…」

手提げ鞄を膝の上に運びつつ目線を泳がせる紅。
あの頃は、それはもう必死で、兎に角必死で、恥だとかそう言った代物をかなぐり捨てていた節がある。
そのお蔭で今の落ち着きがあるのだと思えばそれも良しなのだが…。
時折、こうして掘り返されてはからかわれるのはいただけない。
翼は穏やかに微笑むと、僅かに頬を染めた彼女の手を取って、白く滑らかな肌に唇を掠めさせる。

「行こう。義兄さんと義姉さんが待ってる」

わざとらしく普段は使わない単語を使っての言葉に、紅が頷いた。

「…そうね。遅刻すると大目玉だわ」

顔を見合わせてクスリと笑ってから、二人は一旦繋いだ手を解いて車を降りる。
荷物を運び出すと、どちらともなく寄り添って歩き出した。






不確定な未来を歩く


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07.06.01