理論上は問題がないことを再度確認し終えたところで、紅は綺麗に磨かれているフラスコに手を伸ばした。
慣れた手つきで実験の準備を進める彼女は、とても中学生には見えない。
きっと、理科教師がこの姿を見たならば一般生徒と言う認識は拭わずにはいられなかっただろう。
それが分かっているから、実験中は理科室に入らないことまで約束させている。
もちろん、生徒の侵入を防ぐ為にも、理科室の扉にはしっかりと鍵がかけてある。
そう、紅は空気の流れ一つでも結果が変わってしまうような、そんな難解な研究に挑んでいた。
だが、予期せぬハプニングと言うものは、こう言う緊張感溢れる時に限って起こるものだったりする。
ふつふつと揺らめく液体を真剣な眼差しで見つめていた紅の視界に、何かが入り込んだ。
「?」
とりあえず目を離しても問題がないと悟ると、紅はそちらへと視線を動かした。
途端に、視界に飛び込んできたのは、こちらへと向かってくる何か。
正直に言えば、物凄く見覚えがある。
「うわ…やば…」
思わず呟いた時には、すでに遅すぎた。
真っ直ぐにこちらに向かってきていたそれは、迷いなく理科室の窓ガラスを突き破る。
ガシャーン、と派手な音が耳に届き、あぁ、教室棟から離れていて良かった、なんて場違いな考えが過ぎる。
窓を突き破って尚もこちらに近づいて来たそれを止める事は、両手が塞がった状態の紅には不可能だ。
咄嗟に身体にそれが当たらないように避けた所為で、その進路へと入り込んでしまったのは手に持っていたフラスコ。
因みに中身ももちろん入っている。
綺麗に両手の二つを破壊して、飛んできたそれは壁へとめり込んだ。
それを見届ける暇もなく、紅の視界は白く染まった。
ボン、と篭った爆音が理科室と、その前の廊下に響き渡る。
「けほ…失敗した…」
折角の材料が勿体無い…と呟きながら、紅は爆発に巻きこまれないように低くした身体を起こす。
同時にゴン、と机に頭をぶつけて、再び声もなくその場に蹲った。
そこで、紅は自身の身体の異変に気付く。
床に座り込んだままの状態で、身体のあちらこちらを見回した。
それから、はぁーと長い溜め息。
「ある意味では成功…?」
明らかに中学生の体形ではない自身のそれを見下ろし、感心混じりにそう呟く。
この結果を求めていたわけではないのだが…そう思っていた紅の耳に、理科室の窓の外から足音が届く。
考えるよりも早く、紅はそちらに向けて声を上げていた。
「近づかないで!!」
そうは言ってみるが、すでに遅いだろうと言う事は分かっていた。
割れた窓ガラスの方へと逃げていく気体は実験の成果とも言えるそれ。
窓に近づけば、必然的にそれを吸い込む羽目になる。
それが例えば緑色など、一般的ではない色であったならば近づかなかったかもしれないが、生憎白い気体だ。
それほどに警戒していなかったのか、近づいてきた人物はその煙に巻き込まれた。
窓を突き破ったのがトンファーだった時点で、こうなる未来を予測すべきだった。
紅は軽く頭を押さえながら、そんな事を考える。
原因を説明するには、窓ガラスを割って突入してきたトンファーの存在を忘れてはいけない。
あれさえなければ、少なくとも彼を巻き込む事はなかったのだし、彼自身も巻き込まれる事はなかったのだ。
換気扇をつけたお蔭で霞がかっていた白い気体が晴れて行く中、紅は声を頼りに彼の方を向いた。
風と共に白が晴れた先に居た彼に、紅は目を見開く。
その視線に気付いたのか、彼もまた、自身を見下ろした。
「………………………」
「………………………」
沈黙。
長かったのか、短かったのかは分からない。
たっぷりと無言の時間を取った後、雲雀が口を開いた。
「………………………原因は君?」
「…無関係とは言えませんね」
確かに、この場所で実験を行なっていたのは自分だ。
それに間違いはないのだから、その時点で無関係ではない。
だが、忘れて欲しくはないことが一つ。
「雲雀さんの所為だとも言えますけれど」
お蔭で、実験の一つがパァになってしまったのだ。
実験を始めてからすでに一時間が経過していて、その全てが水の泡。
やや不機嫌にそう答えた紅に、雲雀は珍しいものでも見たかのように目を開いた。
事実、彼女がこうして不機嫌と悟らせるなど珍しい事だ。
いつだって本心は隠して、常に笑っていたように思う。
「珍しいね」
「研究に邪魔が入るのは嫌いなんです」
こんな事になるなら、イタリアに帰ってからにすればよかった。
紅は前髪を掻き揚げながらそう呟いた。
「兎に角、そんな所に立っていて誰かに見つかったら大変です。中に入ってください」
紅は座り込んでいた床から立ち上がると、窓の所まで歩いてガラスの砕けたそれを開く。
幸い、桟には大してガラスが落ちておらず、手をついても怪我はしないだろう。
そこまで近づいた所で、紅は徐に彼の姿をその視界に捉えた。
いつもよりも高く、見上げなければならない位置にあるその鋭い眼差しが自分を見下ろす。
ドクンと、心臓が弾むのを感じた。
「…そこに立たれてると入れないんだけど」
真っ直ぐに結ばれていた唇が解け、やや面倒そうにそう紡ぐ。
それを機に思わず勢いをつけて離れてしまってから、怪訝そうに見つめる彼の視線に気付いた。
ひょいと軽やかに理科室へと侵入した彼は、ローファーであることなど気にせずに窓から離れていく。
あとで掃除しなければ…と考えるが、どの道散らかったガラスの処理が必要なのだから土くらい変わらない。
「この効果はいつ抜けるの?」
「気体を吸い込んだだけですから…半時間もすれば抜けると思います」
「身体に害は?」
「あるような物は流石に学校で実験したりはしませんよ」
「で、君は何で向こうを向いてるの?」
その言葉が耳に届くのが早かったか、態と避けていたはずの視線が彼を真正面から捉えてしまう方が早かったか。
痛いくらいの勢いで振り向かされた紅の視界には、否応無しに雲雀の姿が入り込んでくる。
すぐさま目を逸らしたい衝動に駆られたが、顎をしっかりと掴まれていてそれもままならない。
完全に幼さの取り払われた男前の顔と言うのは、目の保養であり、同時に目のやり場に困る。
況してや、自分が意識している人間のものとなれば…目を逸らしたって、誰にも怒られる筋合いは無いと言うものだ。
…そんな一般常識の中に括れそうな事を訴えた所で、目の前の彼が納得してくれるはずはないけれど。
「目を逸らしてるって気付いてますよね?」
「もちろん」
「なら、そこはあえてそっとしておいてやろうと言う優しさは…」
「ないね。目を逸らすのは弱い生き物のよくある行動だけど、見ていて不愉快だよ」
さようでございますか、と心中で嘆息する。
あまりに彼らしい発言に、反論の言葉も喉の奥に逃げてしまった。
この際どうにでもなってしまえ、と言う半ば投げやりな心境で、しぶとくも逃がしていた視線を彼に向ける。
「その姿の君を見るのは二度目だね」
そんな事を言いながら、雲雀は漸く紅の顎を解放した。
自由の身になったと言うのに、彼女は身動ぎ一つしない―――いや、出来ない。
視界に映るものを自覚すると同時に、紅はストンとその場に座り込んだ。
「…紅?」
座り込むや否や、口元を押さえつつ俯く彼女。
急に体調が悪くなったとは思わないが、その突然の行動に、雲雀は思わずその名を呼んだ。
鼓膜を震わせるその声すらも、紅の状況を悪化させる原因になるのだとも知らずに。
「(なんて心臓に悪い!そもそも雲雀さんがトンファーなんか投げてくるからこんな事に…っ!)」
紅が本来の年齢にまで戻ったのと同じように、雲雀もまた、10年後の姿へと変わっていた。
はっきりとした数字が現れているわけではないが、見た目的に20代前半と言った風貌だから間違いはないだろう。
幼さも残る中学生の姿とは似ても似つかないその姿は、紅の動悸を速めるばかりだ。
耳まで熱を感じているのだから、きっと見せられないくらいに赤くなっているのだろうと思う。
「(顔見たくらいで照れるなんて、一体いくつの小娘よ!)」
自分自身にそう叱咤するも、中々効果は見えてこない。
中身まで異性を意識し出した中学生に戻ったわけでもあるまいし…心中でそう呟く。
そこで、紅は声変わりを終えた耳に丁度良いテノールが自分の名を呼ぶのに気付いた。
「混乱する前に状況を説明して欲しいんだけど?」
「あ、えっと…雲雀さんのトンファーの所為で実験中の薬品が暴発して気化しました。以上」
「…簡略な説明だね」
「それ以外に言いようがありません。って言うか、避けてるってわかってて覗き込まないでくださいっ」
「つい面白くて」
右を向いても左を向いても覗き込まれて、紅は顔を赤くしながらもそう言った。
半ば怒鳴るようなそれではあったけれど、正直その表情で怒鳴られても怖くも何とも無い。
しれっと答えると同時に、雲雀は僅かに身を引いた。
距離が出来た事に落ち着き、紅は深呼吸を二度ほど繰り返す。
「とにかく…。どこにも異常はないですか?」
「うん。特にはないね。むしろ、この身体で戦ってみたいよ。どの程度変わるか…面白そうだね」
「それなりに変わるとは思いますけれど…今後成長する過程で、可能性がある成長を遂げただけです。
全く違う肉体に成長する事だって考えられますから、慣れても意味はありませんよ」
徐々に慣れてきたのだろう。
紅は先ほど不自然に座り込んだ所為で乱れた髪を整えながらそう答える。
「次にこの状況になったとしても、また違う身体になるって事?」
「…まぁ、可能性として。一番可能性の高い成長だとは思いますけれど…仮に肥満体形で進んだとすれば…」
そこまで告げた所で、それを遮るように雲雀によって両頬を引っ張られる。
図らずも間の抜けた声を漏らしてしまって、文句にならない声を発しながら彼を睨みつける。
流石に肥満体形で、と仮定されるのは不愉快だったらしい。
「痛い…。何で私が頬を引っ張られなきゃならないんですか。仮にって言ったのに…」
「仮定する状況が悪すぎる」
「一番分かり易い例えじゃないですか…って、伸びて戻らなかったらどうしてくれるんです!?」
再び伸びてきた手を逃れるようにして、紅はずるずると後ろに下がった。
脅し程度のつもりだったのか、彼も深追いはしてこない。
「学習しないね、君も」
「…何でそこに怒るのかが分からないんですけれどね、私は」
例えに使うものを分かり易くするのは当然、と言う認識があるからこそ、今一理解できない。
だが、納得していないがそれ以上は頬が心配なので言わないでおくことにする。
それから数十分後。
紅が言っていたように半時間と少しで、薬の効果が切れ、二人はそれぞれ中学生の姿へと戻った。
見慣れた姿に戻った彼を見て、心臓に悪い時間だった、と安堵の溜め息を零した事を知るのは紅自身のみ。
だが、脳裏に焼きついている彼の成長後の姿に、思う。
「…まぁ、役得…なのかな」
予期せぬハプニング、予想外の…
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07.05.29