夕暮れの教室。
カリカリとシャーペンの芯が紙を引っ掻く音だけが、そこに響いていた。
ふと、机に向かったままだった紅は近づいてくる足音に気付き、顔を上げる。
それは真っ直ぐにこの教室へと向かっていて、足音だけで誰のものなのかが判別できてしまった。
「悪ぃ、待たせたな。帰るぞ」
ガラッと引き戸のそれを開くと共に掛けられる声。
自分のものよりも低いそれは、男らしさと言うものを具えつつあった。
「んー…もうちょっと」
そう答えると、紅は彼から視線を外して手元のそれへと戻す。
そんな彼女に近づいてくる一護。
夕日により赤く染まる教室内で、彼の髪がその色に溶け込んだ。
「何書いてんだ?」
「卒業文集」
「…まだ出来てなかったのか」
珍しいな、と彼はやや驚いたように目を瞬かせた。
確かに、珍しいかもしれないと思う。
こうした提出物は、基本的に一位を争うほどの早さで提出する紅だ。
締め切りが明日に迫っているのにまだ手元に残していると言うのは珍しい。
ガタン、と椅子を動かし、前の席へと後ろ向きに座る彼。
チラリと目だけを動かしてその姿を一瞥してから、再び作業を進めた。
「どうも思いつかないの」
「何がだ?」
「将来の夢」
「…んなもん、適当に書いときゃいいんじゃねぇの?」
強制じゃないんだしよ、と言う彼の言葉に、紅は手を止めて苦笑を返した。
その適当が難しいから困っているのだ。
彼の言うように、適当な職業でも書いておけばいい。
だが、全く興味のない物を書くというのはどうしても気が引けてしまう。
色々と考えてしまって、結局最後まで空白のままで残してしまっていたのだ。
ずるずると引きずってしまうのは自分らしくないけれど…性格だから仕方がない。
「一護は何て書いたの?」
「…警察官」
「はい、嘘」
一瞬の沈黙の後に返って来た彼の返答に、即座にそう切り返す。
それは間違っていなかったようで、彼は「ばれたか」と口角を持ち上げた。
「一護みたいな手の早い警察が居たら大変…」
「手が早いか?」
「早いよ。それに…違反者と喧嘩しそうだよね。で、勝ちそう」
ありありと想像できてしまって、笑いを堪えることが出来ない。
初めは忍び笑いだったのに、徐々に声が零れてしまう。
仕舞いには声を上げてしまって、無言のままに彼の指先で額を弾かれた。
「でも、いいよね。男の子は働ける場所が多いし」
「そうか?」
「そうだよ。だって、未だに職場の男女差ってのは抜けないらしいしさ」
苦労するんだよ、とまるで自分が体験したみたいに言ってみる。
結局、これだって人から聞いた話なのだからどこまで本当なのかは分からない所だ。
尤も、紅なりに調べた結論としては、男性の方が職は探し易い、と言う事になっているのだが。
「いいなー。私も男の子に生まれればよかった」
羨ましい、などと呟きながら、紅は机にもたれかかる。
その頬を文集の原稿に押し当て、彼からは見えないのをいいことに口を尖らせてみた。
しかし、たとえ見えていなくても一護からすれば紅の取りそうな行動など、手に取るようにわかってしまう。
分からないように苦笑を浮かべながら、彼はポンと彼女の頭に手をやった。
「女にしか出来ないことだってあるだろ」
「そういう仕事は学が必要なんですよ、一護さん。もしくは…見た目とか」
知っていましたか?と紅からの返事が一護の耳に届く。
不思議に、嫌味には聞こえないのは、彼女にそのつもりがないからなのだろう。
「必要なら勉強しろよ」
「…うわぁ…一護の口から勉強しろだなんて言われるとは思わなかった」
「…お前、結構失礼だぞ、それ」
「うん、自覚あります」
よっと、などと掛け声を発しつつ、紅はその身体を起こした。
と言っても寝転がっていたわけではないのだから、ほんの少し上半身に力を入れるだけの簡単な作業だ。
起き上がった彼女は正面から一護と顔を合わせる。
と、そこで彼が小さく噴出すように笑い出した。
「何?」
彼が急に笑い出した理由が分からない。
首を傾げた紅に、一護は片方の肘を着いて顎を乗せ、もう片方でトントンと自身の頬を叩いて見せた。
「跡」
「………!」
暫くの沈黙の後、紅はその短い単語の意味を悟る。
バッと学校指定の鞄に手を突っ込んで、手探りで目当ての鏡を取り出した。
そこに映った自分の頬には、確かに黒い跡が。
「シャー芯が濃いからだな。紅のはBだったか?」
「うん。薄いの嫌い」
そう答えながらごしごしとそれを拭う。
幸い、あまり体重を掛けていなかったお蔭でそれだけで消えてくれた。
「こう言う時の為にHBに変えた方がいいんじゃねぇの?」
ニッと口角を持ち上げて問いかける様は、からかい以外の何物でもない。
だが、思いっきり間抜けを見せてしまった手前、頭ごなしに怒鳴り返すことも難しい。
結果として、紅は僅かに頬を染めて顔を逸らすだけだった。
「っつーか、さっさと終わらせろ。いつになったら帰れるんだよ」
「んー…先帰っててもいいよ?」
「馬鹿か、お前。待たせた奴が先に帰ってどうすんだよ」
馬鹿、と言うところで遠慮なくデコピンが飛んでくる。
ピンと弾かれたそれが伝える痛みなど殆どないけれど、条件反射のように手を添えてしまう。
「だって…待ってるって言ったし」
「じゃあ、俺も待っててやる」
だからさっさと書け。
そう言って、机の上に転がっていたシャーペンを握らされた。
手に良く馴染むそれはここ数ヶ月のお気に入りの一品だ。
さすがに握らされたそれをすぐに離す事は出来ず、手馴れた様子でクルクルと回し始める。
シャーペン回しは器用さが必要らしいが、要は慣れだ。
尤も、一度始めれば、何時間でも続けていられる紅はかなり器用な部類と言えるだろうけれど。
「遊ぶな」
ピンとそれを弾き飛ばされた。
下から上に指を弾かせた所為か、シャーペンはクルクルと回りながら天井へと近づいていく。
だが、床と天井の半分も行かない所で重力に負け、机へと舞い戻ってきた。
「ナイスキャッチ」
取り落とす事無くそれを受け止めた一護の動体視力に拍手。
そんな風にふざけた彼女に、彼は溜め息と共にそれを返した。
「そんなに書くことが思いつかねぇのかよ?」
「ん?うーん…思いつくことには思いつくんだけど…」
「?浮かんでるなら書けばいいじゃねぇか」
「んー………これを書くと、一護さんに迷惑が掛かると思うんですよ」
多分、とやや不安げに告げられれば、一護は怪訝そうに眉間の皺を深めた。
迷惑を掛けると言われて笑える人間は少なく、彼の反応は当然のもの。
「迷惑って…下刻時間間際の教室で待たされる以上に迷惑なことかよ?」
「…多分。一護にとっては、ね」
自分にとってはそうでも、彼女にとってはそうでは無いと言うことだろうか。
意味が分からずに片眉を吊り上げてみれば、彼女は突然紙切れへと向き直って何かを書き出した。
カリカリと言う引っ掻くような音だけが教室内に響く。
逆さまからでも読めない事はないだろうけれど、そこまでして彼女の書いている内容を見る必要はないと思った。
「こう言うこと」
ぴら、と紅が指先で原稿を摘み上げる。
そこに書かれた文字を順に追っていって、最後の『将来の夢』と言う枠内に書かれた文字を読み取る。
最後まで読み終えるよりも前に、息を詰まらせながらそれをもぎ取った。
「ほら、ね」
駄目でしょ?とクスクスと笑う彼女に、一護は声を荒らげる気力さえ削がれた。
皺くちゃにしてしまわないようになけなしの良心をかき集め、はぁ、と溜まった息を吐き出す。
「お前なぁ…。こんなもん卒業文集に載せたら、クラスの奴らのいい的になるぞ」
「んー。それはそれで面白いんじゃない?ユーモア溢れる回答だと思うけど」
「俺は面白くねぇし、文集にユーモアは求められてねぇよ」
「…だろうね」
クスクス、クスクスと笑いを消さずに、代わりにペンケースから消しゴムを取り出し、その文字を消しに掛かる。
「明日提出だし。帰ってから仕上げることにする」
だから帰ろ、と紅は手早く荷物を纏めた。
最後に鞄を肩に提げてから、机の上に乗っていた原稿を手に持つ。
書かれた文字は完全には消えていない。
ふわりと風に踊った紙の上で、黒崎家に永久就職と言う薄い文字が夕日によって照らされた。
夕闇迫る場所で、あなたと
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07.05.28