優しさに包まれて
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トタトタと足取り軽く近づいてくる人物。
その足音が誰の物なのかなど考える必要も無く、紅は口元を緩めた。
学校の課題を片付けてしまおうと思っていたが、どうやら予定は変更せざるを得ないようだ。
カタンとシャーペンを机の上に置くと同時に、部屋の戸が勢いよく開かれる。
「母さん!出来た!!」
「そんなに勢いよく開けたら扉が壊れるでしょうが」
苦笑交じりの紅などお構い無しに、暁斗は椅子に座る彼女の元まで駆けてくる。
「ね、連れてってくれるんでしょ?」
そう言って首を傾げる彼の髪は紅と同じ亜麻色。
佐倉の時の紅の眼の色を引き継いだ彼だが、今はそれも黒色と変化している。
頭の上に乗っている耳も、尾も彼には無かった。
つまり、妖怪としての物が何一つ残されておらず…彼は今、人間の姿になっていたのだ。
「よく出来たわね。じゃあ、明日出掛けようか」
そう微笑みかけた紅。
暁斗の嬉しそうな声が家の中に響き渡った。
翌日、余所行きの服装に身を包んだ紅は暁斗を連れて街までやってきていた。
とある駅前の時計の下。
それが待ち合わせの場所である。
紅のスカートを握るように白い布地に指を絡め、きょろきょろと辺りを見回す暁斗。
見るもの全てが彼にとっては新鮮のようだ。
「ねぇ、あれ何?」
「ん?あぁ、エレベーターの事?上下の移動手段ね」
駅の向かいにあるデパートを指差して暁斗が問いかける。
どれの事か?と紅がそちらを向くと、丁度ガラス張りのエレベーターが上に向かって動いている所だった。
教えてやるなり彼はまた別のものへと興味を奪われる。
そんな彼の様子に笑い出しそうになるのを抑え、紅は持っていた本へと視線を落とした。
だが、数行も読まないうちに活字に影がさす。
「お待たせ。暁斗は?」
「そんなに待ってないわ―――って、どこに行ったの、あの子…」
影の人物は待ち合わせをしていた蔵馬だった。
隣に居たはずの暁斗はスカートに皺を残るだけでその姿は見えない。
きょろ、と辺りを見回すと、さほど苦労せずに自分と同じ髪の少年の背中を発見する。
「…クレープの匂いに誘われたのかな」
クスクスと笑い、蔵馬は彼の方へと歩き出した。
紅も鞄に本を戻すとそれを追うように歩く。
T字型のトンボをくるくると回し、薄く広げられる生地。
眼を輝かせる少年に、クレープ屋の店主は思わず笑みを零した。
「焼いてるところを見るのは初めてか?」
「うん!すっげー…おじさん、上手いね!」
「おじさんじゃねぇ、お兄さんだ。ま、これが俺の仕事だからな」
そう言って彼の前で生地をひっくり返してやれば、「おぉ!」と声を上げる暁斗。
拍手でもしそうな勢いの彼の頭に、ポンと手が載せられた。
それに反応するように暁斗はその手の持ち主を見上げる。
「勝手に歩いたら迷子になるだろ?」
「あ、ごめんなさい…」
耳があれば、しゅんと垂れ下がっている姿を見ることが出来ただろう。
追いついた紅は彼の様子を見て笑みを零す。
そしてクレープ屋の店主に向き直った。
「カスタードの分をお一つ頂けます?」
「あいよ!一つでいいのかい?」
「秀一はどうする?」
そう言って蔵馬に問いかければ、彼は暁斗から顔を逸らして紅の方を向いた。
少しだけ考えるように沈黙したが、やがて「もらうよ」と答える。
「じゃあ、二つで」
紅が指を二本立てて注文すれば「喜んで!」とまるで寿司屋のような元気な声が返ってきた。
風貌からしてもクレープを作っているよりはねじり鉢巻と寿司が似合いそうな店主だ。
気を落としたのは一瞬の事で、暁斗は再び鉄板の上に広げられた生地を見つめる。
そんな彼を見ながら微笑んでいた紅だが、不意に蔵馬の方を見上げた。
「今日はどこに行くの?」
「そうだな…暁斗も居るし、デパートの中でも回ろうか」
焼きあがったばかりの生地を別の場所へと載せ、すでに冷めている生地の上にカスタードを広げる。
その後くるくると畳まれるクレープを眺める暁斗の後ろで二人は予定について意見を交わした。
「あいよ、お待ちどうさん」
「ありがとう。暁斗、受け取りなさい」
暁斗に声を掛けながら鞄の中の財布を取り出す紅。
しかし、それを制するように蔵馬の手が伸びてきた。
彼を見上げる頃には時すでに遅く、彼の財布から抜き取られた料金がトレイの中へと載せられる。
「この子の分は払うわ」
「いいよ。今日誘ったのは俺の方だからね」
「でも…」
「姉ちゃん、男が払うって言ってる時には奢ってもらっとけよ。いい彼氏じゃないか」
笑いながら二つ分の料金を受け取り、店主はおつりを彼へと渡す。
そしてその後二つのクレープを蔵馬の手に渡した。
その時に紅が首を傾げる。
すでに一つ、暁斗の手の中にクレープがあるのだ。
「あの…」
「デートなのに弟を連れてきてやる姉ちゃんの優しさに奢ってやるよ。持っていきな」
「…ありがとうございます」
断るにもすでに出来上がっている商品だ。
先程の彼の言葉もあるのだからと、紅は素直に礼を述べた。
蔵馬の手からそれを受け取るなりもう片方に暁斗の手が絡みついてくる。
右手にクレープ、左手に紅の手を握りながら暁斗はご満悦の様子でクレープ屋を振り向いた。
「お兄さんありがとうね!」
笑顔でそう言うと、彼は二人を急かすように先に歩き出す。
ひらひらと手を振り、傍にいた客に注文を受けるまでその背を見送っていた。
「弟だって」
「まぁ、普通の反応だよ。二人とも高校生だし」
適度に日差しを遮ってくれている木陰にあるベンチ。
そこに腰を下ろし、紅は苦笑を浮かべていた。
暁斗を挟むように座っていた蔵馬が笑う。
「そうよね。流石に息子ですって言っても冗談で流されそう」
「暁斗の外見年齢から考えると…10歳以下の時の子供になるしね」
流石にありえない、と彼は言った。
それを考えれば弟というのが妥当なところだろう。
本日限定の彼女の『弟』は、ご機嫌宜しくクレープに噛み付いていた。
「さて、と。食べ終わったらデパートに入ろうか」
「デパート…?ねぇ、母さん。アレ乗れる?」
デパートと言う単語を繰り返した暁斗に蔵馬は駅前の建物を指差してやる。
それを見て先程の事を思い出したのか、彼は紅の方を向いて問いかけた。
「乗れる?」ではなく「乗りたい」と目が語っている。
「乗れるわよ。あまり面白くないかもしれないけど…」
遊園地の遊具ではないのだから、ご期待に副えられるかどうかは微妙なところだ。
移動手段として作られただけに不安が残るな、と彼女は内心苦笑を浮かべる。
だが、彼女の心中など知らない暁斗は嬉しそうに最後の一口を口の中へと放り込んだ。
彼は飲み込み終える間も惜しいとばかりに二人の手を引いて無理やり立たせる。
「暁斗、エレベーターは逃げないから落ち着きなさい」
「何?エレベーターを楽しみにしてるのか?」
「さっき興味を惹かれたらしいのよ」
落ち着けと言われて聞くような子ではない。
そうわかっている紅は引かれるままに歩き出した。
無論、蔵馬も彼女と同じ反応だ。
握られているだけだった手を握り返し、彼が小走りにならない程度に速度を合わせる。
間に挟まれた暁斗は嬉しそうに笑い、蔵馬と紅を交互に見上げた。
子供用の服が並ぶ店内。
「どっちがいい?」
「俺はどっちでもいいよ。母さんが選んで?」
「そう言われても好みもあるんだけど…」
蔵馬の用事を済ませた三人は、暁斗の服が無いという事で子供洋服店を訪れていた。
良さそうな服を手にとっては暁斗に合わせてみるのだが、どうも彼自身があまり乗り気ではない様子。
魔界ではあまり洋服と言えば見栄えよりもその性能を重視する事からあまり興味が無いのだろう。
目を離せば先程お気に召したエレベーターの方へ歩き出しそうな暁斗の襟首を掴んだまま棚の間を歩く。
「そんなに何着もいらないって。どうせ着ないんだし…」
「駄目なの。自分のなんだからちゃんと考えなさいよ」
「え~」
「“え~”じゃない」
すぐに服ではない別のものに気を取られそうに暁斗。
何度か紅に引き戻される様子を眺めていた蔵馬は笑いを堪えつつ口を開いた。
「そのくらいでいいと思うよ。本人もこう言ってるんだし」
「そうそう。必要なら盗れば………いひゃいひょ、ひょうさん!!」
そう言って笑った暁斗の頬は蔵馬によって引っ張られる。
空気の抜けた文句を漏らす彼の口を手で塞ぎ、蔵馬はどうしようかと悩む紅へと向き直る。
「そろそろ暁斗も飽きてきてるし、また今度でもいいんじゃないかな?」
「…じゃあ、そうするわ。これだけ買ってくる」
漸く頷いた紅は持っていたTシャツを片手にレジの方へと向かって歩き出した。
その背を見送ると、蔵馬は漸く暁斗の口を解放する。
「と、父さん…鼻まで押さえないでよ、苦しいじゃん…」
「あぁ、ごめんごめん。それから、ここでは物を盗るのは犯罪だよ」
覚えておくように、と小声で窘める父に、暁斗はそう言えば…と思い出す。
出掛ける前に母から念を押されていたのをすっかり忘れていた。
最後まで紡いでいれば、帰ってから彼女のお叱りを受けることになっていただろう。
多少苦しい思いはしたものの、ここは素直に感謝すべきところだ。
「ありがとう、父さん」
「いいよ。徐々に覚えていけばいい」
そう笑うと、蔵馬は紅と同じ亜麻色の髪をかき混ぜる。
咎めるような声が飛ぶが、そんな事などお構い無しだった。
彼が解放されたのは紅が買い物を済ませて戻ってきた時である。
はしゃぎ疲れたのか、電車の中で眠ってしまった暁斗を蔵馬が抱き、二人は岐路に着く。
いつも大丈夫だと言う紅の反対を押し切り、蔵馬は彼女らを幻海師範の屋敷まで送っている。
今日も例に漏れる事無く彼はその道についていた。
「重くない?」
「これくらいは軽いよ」
そう言って笑う蔵馬。
重くは無いが、腕に感じる重みは彼が成長しているのだと言う事を感じさせた。
「…ちゃんと成長してるんだな…」
「当然でしょう?いつまでも子供じゃないわ」
クスクスと笑う紅も、やはり同じ事を感じているのだ。
目に見えて成長するわけではないから見落としそうになるが、それでもちゃんと成長している。
自分達の血を受け継ぐものの成長と言うのは何とも不思議で、それで居て酷く嬉しいものだった。
「っと」
突然蔵馬が声を上げたので彼の方を向けば、腕に抱かれた暁斗の頭に銀毛に包まれた耳が姿を現していた。
次いでふさふさした尾も戻り、髪は同じ色に染まる。
完全熟睡モードに入ってしまったために変身が解けたのだろう。
「…もう少し修行が必要みたいね」
「…だな」
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06.04.09