赤の他人の為に必死で縋ってきた手を、解けなかった。
隊長として『十』を背負うようになって暫く経った頃だった。
突然舞い込んできた任務に赴いた先で見つけた、己と並ぶかそれ以上の霊力の持ち主。
洗練されていない原石の輝きに、死神としての能力を見出すには十分だった。
「また、お会い出来ましたね」
初めて十番隊に足を踏み入れたとき、紅はそう言って微笑んだ。
卒業するまで一切会わないと、彼女自身がそう告げてから約半年。
死覇装に身を包み、斬魄刀を腰に挿した彼女は確かに死神となって日番谷の前に立っていた。
「そうだな。これからお前の上官になる日番谷だ」
名前くらい知っているはずの彼女に、改めてそう言った日番谷。
紅は一瞬きょとんとするも、すぐに柔らかい表情を浮かべて頭を下げた。
「十番隊へ配属されました雪耶と申します」
彼女の言葉に満足げに頷き、日番谷は机の上に用意してあった書類を彼女へと手渡す。
入隊に関するそれに目を通すのを見つめつつ、彼は言った。
「配属は十番隊第四席。どっかの馬鹿が副隊長になるのを拒みやがったからな」
明らかにトゲのある物言いに、紅は視線を持ち上げ彼を見つめる。
「行き成り席官と言うだけでも十分信じられませんのに…嫌ですよ、副隊長だなんて」
「…実力はあるっつってんのに…」
「スキルではなく実績の問題です」
「………強情な奴」
「今更席官云々の話をする日番谷…隊長もあまり変わりませんよ」
途中で言葉を詰まらせるも、紅は最後までそれを紡ぐ。
もちろんそれに日番谷が気づかないはずもない。
一度は手元に落とした視線を持ち上げ、机の前に立つ彼女を見上げた。
「何なら『隊長』ってのは抜きでもいいんだぜ?」
「謹んでご遠慮申し上げます」
入隊早々他の隊員に睨まれるのはご免ですので。と紅は淡々と答える。
机を借りると一言彼に声をかけて渡された書類に文字を書き連ねた。
書名の欄に『雪耶 紅』と記そうとして、その手が一瞬だけ止まる。
「…家の方には慣れたのか?」
「ええ。お父様もお母様も良くしてくれますから」
本心からとわかるその表情に、日番谷は「そうかよ」と短く答える。
それ以上何かを紡ごうとすれば、否応無しに口元が緩みそうだったから。
知られたくはなかった。
彼女自身が嬉しそうに笑うだけで、自分までどうしようもなく微笑ましく思えるなど。
「紅ちゃん。仕事の説明するからこっちに来てもらってもいい?」
乱菊が顔を覗かせ、手招きをしながら紅を呼ぶ。
その声に反応して「はい」と声をあげ、紅は彼女の方へと歩いていった。
戸の所で二・三言葉を交わし、乱菊が紅越しに日番谷の方を向く。
「隊長、少し借りていきますね」
「わかった。程ほどに終わらせてお前も仕事しろよ」
「あはは…努力します」
そう言って乱菊が顔を引っ込ませると同時に紅も彼女に続く。
それを見送り、日番谷は深々と溜め息を吐き出した。
乱菊が紅の世話を買って出たのは仕事が面倒だということが半分以上を占めるのだろう。
それはわかっているが、隊長としての仕事が溢れる自分では一から紅に教えている時間はない。
ある程度は彼女に任せるしかないのだろうと、日番谷は自身を納得させる。
乱菊に軽く仕事の説明を聞くと、紅は再び執務室に戻ってきていた。
それを見送った乱菊は暫く戸棚の整理と称して隣の部屋に居座っていたのだが…。
「副隊長」
「乱菊でいいってば。どうしたの?」
顔を覗かせる紅に、乱菊は優しく問いかけた。
彼女の表情はどこか困っているように見える。
「隊長が…」
そう言って紅は首を後ろへと振り向かせる。
束になった書類を片手に彼女の奥を覗き込めば、その理由がわかった。
「あら、珍しい」
机に伏している彼の肩は規則正しく上下に動いている。
だが、彼の翡翠は閉ざされ、何かを映すでもなくただ無防備な表情を曝け出していた。
…眉間に刻まれた皺は少ないながらも鎮座していたが。
「…疲れてるんでしょ。放っておきなさい」
「そんなに忙しいんですか?」
何処から持ち出してきたのか、羽織を片手に紅は日番谷の元まで歩く。
その肩にそっと羽織をかけると乱菊の居る部屋へと戻ってきた。
話し声で彼を起こしてしまわないようにとの計らいだろう。
「違う違う。実はね、ここ最近隊長たちは遅くまで隊首会をしてたのよ」
紅の言葉に乱菊はクスクスと笑いながら答える。
首を傾げた彼女ににこりと微笑みかけ、続けた。
「優秀な部下はどんな隊長でも欲しい物よ」
「部下って…………私の所為!?」
驚いたように目を見開き、声を上げる紅。
乱菊が声を上げて笑う隣で彼女は慌てたように視線を彷徨わせた。
「特に十一番隊の隊長………あぁ、更木隊長って言うんだけどね。彼とは最後まで競っていたらしいわよ」
「十一番………あ、鈴の人ですか?可愛い女の子を連れた」
「そうそう。何だ、やっぱり会ってたのね」
「手合わせを願われました。さすがにあの時はお断りしましたけど…」
隊長だったんですね、と紅は言う。
そう言えば白い羽織を羽織っていたような…気はしないでもない。
髪型や顔が印象的過ぎてよく覚えていないが。
「それにしても…そんな事で隊首会を長引かせるなんて、暇なんですか?」
「紅…天然?」
「まさか」
そう答えて紅はクスクスと笑う。
隊長らが暇なはずがないと言う事などわかっている。
期待されていたと言う点は嬉しい以外の何物でもないが、それを口に出さない紅の天邪鬼な部分のなせる業だ。
乱菊も彼女の返答にクスリと笑みを浮かべ、処理済の分を持って部屋を出て行く。
「紅ちゃん、任せてもいい?」
そう言って彼女が顎で指す日番谷を見て、紅はこくりと頷く。
そして、忙しいからなのか日常なのかはわからないが、十番隊の執務室には二人以外に誰も居なくなった。
「…いつまで狸寝入りを?」
ふと、紅は机の背中に配置されている窓から瀞霊廷内を見て口を開く。
後ろで衣擦れと椅子の軋む音がした。
「気づいてたのかよ」
「もちろん。私が羽織をかけた時に起きたって事は気づいてたわ」
彼女の砕けた話し方に軽く目を瞠る日番谷。
しかし、部屋の中に誰も居ないことに気づくとその理由を悟った。
そんな彼の変化に気づいたのか、紅は笑みを深めて言う。
「敬語を使う度に眉を顰められるの、困るのよね」
「…は?」
「あれ?自分で気づいてなかったの?」
私が敬語で話しかけるとここの皺が少しだけ深まるのよ、と紅は彼の眉間を押さえる。
そんな彼女の手を軽く払いのけ、日番谷は顔を逸らした。
自分でも気づかない変化を彼女自身に悟られていたと思うと何とも言えず恥ずかしい。
赤くなりそうな顔を隠すように顔を動かし、その口元を手で覆った。
「…無事に隊に配属されたのは、日番谷隊長の口添えのおかげでもあると思ってる。ありがとう」
「………優秀な部下は多いに越した事はねぇからな」
「ご期待に沿えるよう頑張るわ」
初めは居なかったはずの人間が、ここまで自分の中で膨れ上がっているとは思わなかった。
今この瞬間さえも、表情の変わった彼女の存在が大きく成長していく。
自分の…自分だけのものだった世界に、赤の他人であった彼女は入り込んできた。
それを苦と思わないのは、自分の心が彼女を許しているからに他ならないのだろう。
ただぼんやりと彼女をその翡翠に映していると、その視線に気づいたのか彼女は顔をこちらに向ける。
「何見てるの?」
「別に」
「…変な日番谷隊長」
紅は俺の世界に居た。
まるで初めからそこに在ったかのように違和感なく。
その世界に飛び込んできた君
Thank you 1,000,000 hit!!
06.01.15