「―――――っ!!」

草木も眠る丑三つ時。
コウは貪っていた睡眠の世界から飛び起きた。
普段の着衣を緩めただけと言う風貌で、彼女はその胸元を掻き寄せる。
握り締めた指が白くなって尚、その手を緩める事はなかった。

「…ゆ、めか…」

じっとりとした嫌な汗が背中や首筋に残っているようだ。
就寝中独特の篭った空気がより一層不快感を掻きたてる。
額に張り付いた髪を掻き揚げ、コウはゆっくりと寝床から足を下ろした。
少し痛んだ床がギシリと悲鳴を上げる。
ベッドに立てかけてあった蒼剣を持ち上げ、彼女は音もなく部屋を後にした。











メインマストの見張り台で、仲間の一人が毛布に包まっているのが夜目でも確認できた。
彼の仕事を邪魔せぬようにと、コウは壁伝いに静かに歩いていく。
木の床だからだろうか、足音は響かない。
そうして、コウは船の最後尾にやってきた。

「嫌な夢…」

縁に腕をかけるようにして凭れかかり、コウは小さく呟いた。
夜風が頬を撫でていくのが心地よい。
しかし、その気分が晴れると言う事はなさそうだ。

「今頃…ね…」

忘れていたはずの過去が、偽りの夢となって自分の前に現れた。
まるで、忘れることなど許さぬと言う風に。
腕に額を預けるように腰を折り、コウはそっと目を閉じた。
記憶の上にいくらそれを重ねようとも、決して忘れられないそれ。
重く沈んだ心を共に吐き出すかのように、コウは短く溜め息をついた。
それと同時に、無意識に張り詰めていた警戒網の中に誰かが進入したのに気づく。
靴音が耳に届くとほぼ同時に、彼女はその人物の首にピタリと蒼剣を押し当てていた。

「おいおい…えらく物騒だな、コウさんよぉ…」
「シ…シャンクス!?」

軽く両手を肩辺りまで持ち上げ、夜目にもよく目立つ赤髪を揺らす人物。
それはこの船の船長、シャンクスに他ならなかった。
驚きに表情を染め上げながらもコウはすぐさま蒼剣を引く。
ほんの僅かながらも傷ついたらしい首筋に、一筋の赤が流れ落ちる。

――肌の上を流れる赤に重なるデジャビュ。

それを見たコウが蒼剣を手から滑り落とした。
甲板の上にカシャンと蒼剣が転がる。
戦場では一瞬たりともそれを手放さない彼女からすれば驚くような行動だった。
目を見開くシャンクスの前で、コウは呆然と自身の手を見つめる。

「…お頭?」

音か声を聞きつけたらしい見張りのクルーが向こうからやってくる。
それを見て、シャンクスはコウを隠すように羽織ってきたコートの中に引き寄せ、彼を振り向く。

「何かあったんですか?」
「おう。気にすんな。コウが寝ぼけて攻撃してきただけだからな」

冗談めかしてそう言うと、クルーも「風邪引かないでくださいよ」などと軽く返して持ち場へと去っていく。
それを見送って、シャンクスは腕の中に大人しく納まっている彼女を見下ろした。

「…どした?」

コウの様子がおかしい事は明らかだった。
シャンクスは彼女を刺激しないように静かに声をかける。
ピクリと彼女の肩が揺れ、俯いていた顔が徐々に持ち上げられる。
ブルーグレーの髪が月の光を反射させて銀色に輝いた。
彼女は顔を上げると伏せがちに閉じていた目をゆっくりと開き、その海色の眼にシャンクスを映す。
そして力なく微笑んだ。

「…何でもないわ。ごめんなさい」

そう言って彼の首筋に伝っていた血を拭い、腕の中から逃れるようにその胸板を押した。
促がされるままに腕の力を抜き、シャンクスは彼女が距離を取る事を許す。

「明らかに、何でもないって顔じゃねぇよ。話しちまえよ、楽になるぜ」

彼はニッと笑みを浮かべ、頭一つと半分ほど低い彼女の頭をポンポンと撫でる。
洗練された言葉で慰めるわけではない彼の行動に、コウは僅かに強張っていた表情を解く。

「長話になるわよ?一晩丸々使うかもしれないのに…付き合ってくれるの?」
「お前の面倒は今に始まった事じゃねぇだろ」
「なるほどね…」

シャンクスの軽口に肩を竦め、いくらか調子を取り戻したらしいコウは口元に薄く笑みを浮かべる。
そして、再び夜の海を眺めるように船の縁に腕を乗せ、もたれかかる。

「ただ…嫌な夢を見ただけ」
「夢?」
「そ。たった、それだけ」

ほんの少し悪戯めいた笑みを浮かべれば、シャンクスは呆気に取られた表情で彼女を見つめかえす。

「…ちょっと待て。一晩丸々じゃなかったのかよ?」
「まさか。一晩も話すようなことじゃないわ」

そう言ってシャンクスから水平線の方へと視線を移動させる。
数多の星が水平線の辺りで海に飲まれていくようで、何とも幻想的だった。
船に乗るようになってからと言うもの、コウはこうして夜の星空を見上げるのが好きだ。
薄着のままに甲板へと赴いて夜空を見上げては、彼女を慕う心配性なクルーに窘められる。
コウは水平線を見つめる視界の端で、シャンクスが隣に立ったのを認める。
彼も彼女の方を向くわけではなく、同じように彼方へと目をやった。

「過去に囚われた…嫌な夢を見た。ただそれだけなの」
「…そうか」

シャンクスはコウの、一瞬だけ垣間見えた表情を見ただろうか。
悲しみに染まるその表情を。

「抱え込むなよ。お前は…もう一人じゃねぇだろ?」

一人それに怯え、哀しんで膝を抱えていたのはすでに過去の事。
彼はコウから彼女の過去を聞いている。
あの時と同じ声色だと、彼は思った。

「わかってる…つもりなんだけどなぁ…。何か、毎年この時期は不安定になるの」

駄目だね、と彼女は自嘲する。

「声の届く所に居てくれる人がいるってわかっていても、不安を完全に拭い去る事は出来ないから」
「どうすれば安心できるんだ?」

シャンクスの言葉にコウは少しだけ悩むように視線を彷徨わせる。
そして、彼へと固定してから口を開いた。

「今、凄く安心出来ているわ」

コウは動物すらも見惚れそうなほどに綺麗に微笑んで見せた。

「…なるほどな」

彼はふっと口角を緩め、そして喉で笑い始める。
それに釣られたコウも同じく控えめな笑い声を上げた。

「よし!んじゃ、そろそろ寝るぞ。明日も何があるかー…って、もう今日だったな」
「グランドラインだものね。油断は出来ないわ」
「そう言うこった」

言い終えるが早いか、彼はふと悪戯を思いついたとばかりに顔を輝かせる。
それに言い知れぬ不安を感じたコウだったが、時すでに遅し。
身を引こうとした時にはその腕を引かれ、彼女はいとも簡単に彼の肩へと担がれる。

「どこに運ぶつもりですかー、船長」
「気にすんなって。船長補佐」

ここで暴れないのが何とも彼女らしいところだろう。
すでに諦めているのか、頭に血が上らないように上体を起こして、後ろから前に流れる風景を見やる。
瞬く星々に見送られながら、コウはシャンクスの肩に担がれたまま船の中へと姿を消した。








「おっし、到着」

そんな声と共に、数分振りの床の感覚。
連れて来られたのは自分の部屋…を通り越したその隣の部屋。
皆と一緒でいいと言った彼の言葉を押し切り「船長なんですから」とクルーらが彼に割り当てた部屋である。
因みにコウの場合も似たような状況で隣の部屋を貰っていた。

「…部屋、隣なんだけど…?」
「おう。それくらい知ってるぜ?」

下ろされた位置から一歩も動かないコウに対し、シャンクスはいそいそと寝る準備に入っていた。
彼の魂胆には気づいていたが、動かないのは彼女なりの抵抗の表れだろう。

「ほら、んなとこに突っ立ってねぇでこっちに来いよ」

すでにスタンバイOK状態のベッドに腰掛け、シャンクスは手首を上下に揺らして彼女を呼ぶ。
そんな彼の行動を見て、コウは長い溜め息を落とした。

「お頭がこんなのでいいのかしらね…」

そんな事を呟きながら彼の元へ歩み寄り、丁度一人分空けられている彼の隣へと身体を滑らせる。
背中に腕が回り、引き寄せられると同時に感じる彼の体温。
これに安心できる自分がいる事は、もはや否めない事実だった。

「…お父さんみたいね」
「おいおいおいおい。未来の旦那を捕まえてお父さんかよ…」
「……いつの間に未来の旦那に決定したの?」
「逢った時から」

そんな即答を返す彼にコウは僅かに口角を持ち上げると、その胸に顔を埋めるようにして目を閉じた。












あれから数時間。
すでに日も高く昇った頃、赤髪海賊団の船では大きな破壊音が轟いていた。

「…………何してるの?」
「壁ぶち抜いてる」

こうすりゃもう不安にはならねぇだろ!と張り切るシャンクスの向こうには壁の残骸が舞う。
それを呆れた様子で見つめるコウ。

「…船の強度は大丈夫なの…?」
「………ギリギリ大丈夫っス。後で補強しに来てもいいですか…」
「もちろんよ。苦労するわね…」

隣で泣きそうな顔で見守る船大工の肩をポンポンと叩き、コウは彼の元まで歩いた。
麦わらの代わりに頭に乗せたタオルがよく似合っている。

「…本当に無茶する人ね、シャンも」
「そうか?大事なコウの為ならこれくらいお安い御用だって」
「……ありがとう」

照れながらも嬉しそうに笑ったコウに、シャンクスも同じく少年のような笑顔を見せた。

「おう!」





元気になれるその笑顔


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06.01.07