小さな願い、祈り

「ねぇ、翼はどっちがいい?」

三人掛けのソファーに深く沈み、雑誌を読んでいた紅がそう声をかける。
昼食の後片付けをしていた翼は、ダイニングカウンターの所から彼女に視線を向けた。

「何が?」
「赤ちゃん」
「あぁ、性別?」

主語のない会話の意味を理解し、納得する。
それから少しだけ考えて、どちらでも、と返した。

「こだわりないんだ?」
「うん」

最後の食器を籠の中に伏せてから手を洗い、タオルで水気を拭いながらリビングを出ていく。
戻ってきた翼は、キッチンで紅茶を二つ入れてから、紅の隣へと沈みこんだ。








息子であれば、もしかしたら一緒にサッカーができるかもしれない。
最近は女性のサッカー選手の活躍も目覚ましいから、娘であったとしても、サッカーはできるかもしれない。
けれど、別に野球がしたいというならばそれはそれだし、他の何かでもいい。

自分のやりたいことをして、時には壁にぶつかって。
途中でやめてしまうことだって、あっていい。
そんな中で、仲間ができるだろう。
志を同じくする仲間は頼もしいだろうし、趣味の違う仲間が互いに研鑽できる。

そうして人生を歩んで行って、いつか、ずっと一緒に居るんだろうなと思う人に出会うだろう。











翼の話は静かで優しく、穏やかだった。
遠い未来を見つめるように語る彼に、紅は黙って瞬きをする。

「…何?」
「いや…まだ生まれてもない赤ちゃんの性別の話から、まさかそんな話が聞けるとは思わなくて」

ちょっと、驚いてる。

そう言うと、受け取ったまま飲むことも忘れていたマグカップを見下ろす。
そうしなければ、涙腺が緩んでしまいそうだった。
ただでさえホルモンバランスが大きく変化しているのか、ふとした時に涙腺が緩むのだ。
こんな話を聞いてしまったら、無理に決まっている。
妊婦に配慮されたルイボスティーのぬくもりや香りもまた、それを助長していた。

「…まだこっちか日本か、どっちで育てるのかも決めてないけどさ」
「…うん」
「それでも、紅と一緒に二人で、元気に育てられたらそれでいいって…いつも、思ってるよ」
「………何それぇ…いつもそんなこと言わないのにぃ…」

ボロボロと零れ落ちる涙が止まらない。
こんな感動的な話をしようと思ったわけではない。

翼は男の子の方が、サッカーができるから喜ぶのかな。
でも女の子ならきっと滅茶苦茶可愛い子になるから、着飾るのかな。

そんなことを、楽しく話をしようと思っただけなのに。
感情が高ぶって、心臓が痛むほどに、胸が詰まる。

止まらない涙に翼が小さく笑うのが見えた。
涙を拭うこともままならない紅の手からマグカップを受け取り、テーブルに置く。

「ほんとに涙もろくなってるよね。面白くなってくるよ」
「泣かせるために話したの…?もぅー…一度出ると止まらないのに…」
「まさか。いつも思ってることだって、さっき言っただろ?」
「…だからっ、そういう所…!!」

手渡したタオルに顔を埋めた紅を膝の上に招き、その腕の中に抱きしめる。



自分だって驚いているのだ。
ごく自然に、未来のことを考えるようになった。
今日明日のことではなく、自分たちが年老いていく中に、まだ顔も想像できない子供の存在が加わって。
彼か、もしくは彼女がどんどん成長して、自分たちと同じように様々なことを経験していく。
そうして生きていく世界が平和であればいいと、そんなことを考えたのは紅のお腹に小さな命が宿ってからだった。
玲の話を聞いていると、子育ては一筋縄ではいかないことばかりらしい。
きっと、想像を絶する苦労や困惑、時には怒りもあるのだろう。
紅を困らせて怒らせることもあるのかもしれない。
それでも―――今この胸にある、二人に対する感情は、どうしようもなく尊いものに思えた。
きっと、この感情さえ忘れなければ、どんなことがあっても、二人の幸せを願っていけるのだろう。

そんなことを考えながら、腕の中の彼女をあやすように撫でる。

「(全部伝えたら、脱水になりそうだよね)」

妊娠が発覚して暫く経つけれど、彼女は随分と涙脆くなった。
妊娠期間から出産を経て、女性は身体的にも精神的にも様々に変化すると聞いている。
その関係なのか、自らの身体の中で生命を育てていることによる何かの影響なのか。
時々、目が溶けてなくなってしまうのでは、と思うほどに泣いている姿を見て、少しだけ心配になる。
そんな話を暁斗に聞かせたら、思い切り笑われてしまった。

「大丈夫大丈夫。そのうち治まるから。玲も一時期涙脆かったなぁ…今は、母は強し!って感じだけどな」
「…俺に、何かできること…ある?」
「そうだなぁ…とりあえず、甘やかしてやれよ。できるだけ言葉にして、抱きしめてやってくれ」

そう答えた暁斗の横顔は、父親のそれであり、また最愛を持つ夫としてのそれだと感じた。
自分も今、きっと、そう言う顔をしているんだろう。

「…翼」
「ん?」
「…ありがとう。色々…兄さんたちに聞いて、勉強してくれてるんでしょ…?」

体勢を変えないまま、紅がそう呟いた。
涙は少しだけ治まったようだ。

「知らないことばかりだからね」
「…勉強熱心だね。流石、飛葉中のクレバーな司令塔だわ」
「なに、懐かしい話だね、それ。そう言えば、アイツらが日本に帰ってくるなら会いたいって」
「うん…私も会いたいなぁ…」
「どっちで産むかを決めてからにしたいね。今の時期なら飛行機は大丈夫だとは聞くけど」
「何があるかはわからないから、乗らずに済むならそれがいい…」
「うん。紅がそう思うなら、そうしよう」

そろり、と腕の中の彼女が動くのに合わせて腕を緩める。
顔を上げた彼女と額を合わせ、どちらともなく笑う。

「…翼、頼もしいね」
「光栄だね。これでも元飛葉のキャプテンだからね」
「ふふ…懐かしいなぁ…。やっぱり、向こうの話を聞くと、安心するね」
「そうだね」
「…私もね。男の子でも女の子でも、どっちでもいいの。ただ、元気で幸せに育ってくれたら…それでいい」
「…うん、そうだね」

Request [ 八周年企画|美桜さん|妊娠発覚後の穏やかで幸せな時間の話 ]
20.09.06