どこまでも続く
「―――死ぬかと思った」
「縁起でもないことを言うな」
汗にまみれて、髪の毛だってピタリと肌に張り付いたままで。
長時間の戦いによってくたびれた顔だというのに、何よりも美しいと感じた。
こちらはどこか神秘的な光景にこみ上げるものをぐっと飲みこんでいたというのに。
漸く思い出しましたとばかりの表情で自分を見上げた彼女の第一声に、何だか笑いがこみ上げてくる。
こめかみを伝ったのは、汗かそれとも涙か。
拭うように親指を頬に滑らせれば、手の平に甘えてくる彼女。
「…ありがとう」
「…うん、私も…ありがとう」
「お前が礼を言うことか?」
フッと口角が持ち上がるのを感じる。
きっと、自分の今の表情は、どうしようもなく緩んでしまっていて、誰かに見せられたものじゃないだろう。
そう思うけれど、目の前の彼女に対してこみ上げる感情が、天井知らずに伸びていく。
「…だって…ほら」
ゆるり、と持ち上げられた細い手が、ローの頬へと伸びる。
しっとりと汗ばんだ手の平が頬をなぞり、何かを拭った。
「涙が出るほど、喜んでくれてるんでしょ?」
だから、ありがとうなの。
そう言って揺らぐ視界の中で微笑む彼女は、やはり何よりも美しかった。
これでくつろぐと良いよ!
そう言って、ロッキングチェアを作ってくれたのはベポだったか。
普段は食堂の一角に置いてあるそれは、この島にしばらく滞在するからという理由で陸に運ばれた。
生憎、砂地に埋もれて本来の揺らぎを楽しむことはできないけれど、傍に立てかけられたパラソルと共に快適な空間を作ってくれている。
妊娠途中から仲良くしているロッキングチェアは自分の身体によく馴染み、座っているだけで眠気がやってくる。
尤も、腕の中ですやすやと眠る我が子の寝息もまた、眠りへの誘いには違いないのだが。
「よく眠るねぇ…君は」
最近では、上陸する島を選ぶのに第一条件が治安の良さになっている。
ある意味、海賊が目指すものとしてはどこかずれている条件であるが、ハートの海賊団にとってはそれが何よりも重要だった。
生まれて三か月と少しの赤ん坊の存在は、それだけ大きな影響力を持っていたのである。
現に、コウが赤ん坊と共にくつろぐこの砂浜に、何かの喧騒は届いて来ない。
聞こえているのはさざ波の音と、頭上を飛ぶ鳥の声。
平和だなぁ、とパラソルの骨組みを見上げる。
「…寝たか?」
「うん。さっきね」
横から伸びてきた入れ墨の入った腕が、赤ん坊を抱き上げる。
危なげなく腕全体で赤ん坊を抱き上げたのは、トレードマークの帽子を脱いだローだった。
春島とは言え、あの帽子をかぶっているのは暑いのかもしれない。
ロッキングチェアの足に凭れるようにして座った彼は、胡坐をかいた足の上にタオルを乗せ、そこに赤ん坊を寝かせた。
ここまでの間に一切目を覚まさないのだから、よく眠る子だと感心する。
「だいぶ上手に抱っこできるようになったね?」
くすくすと笑うと、うるせぇ、と小さな声が返ってくる。
実のところ、彼は赤ん坊を抱くのが下手だった。
定頸前の柔らかすぎる赤ん坊を安定させることができず、抱こうと試みては不機嫌に泣かれていたこともある。
今では首が安定してきたことと、ローの経験値が上がったことで、難なく抱き上げることができるようになった。
「…眠ぃ」
「寝たら?昨日の夜、起きてミルクあげてくれたんでしょ?」
「目が覚めたからな」
何でもないことのように答えるけれど、それがとてもありがたいことだとわかっている。
父親であるローは育児に積極的であり、何でもないことのように全てを分担してくれる。
彼だけでなく、ハートの海賊団の全員が、できることを手伝ってくれていた。
「この子は幸せだね」
椅子から身を乗り出し、ローの肩に手をかけて膝の上の赤ん坊を見つめる。
ふくよかな頬にローの指が滑る様子は、笑い出したくなるくらいに幸せな光景だった。
「海賊だがな」
「海賊だって、幸せになれるよ」
後ろからローの頬を引っ張れば、横目にじろりと睨まれる。
それでも身体を動かさないのは膝の上の赤ん坊の眠りを妨げないためだ。
「私、幸せだもん」
後ろからその首元をギュッと抱きしめる。
人体の急所であるそこを、惜しげもなく晒してくれることに、これ以上の信頼はあるだろうかと思った。
「俺も―――」
「………“俺も”?」
「…………俺も、幸せだ」
少しだけ言い淀んで。
それでも小さく発せられたその言葉が、とても嬉しい。
全てを捨てようとしていた過去を知っているから、尚更だ。
「…諦めなくて、良かったでしょ?」
「…そうだな」
「ローさんもすごいけど…私の幼馴染もすごいからね!こっちの考えなんてお構いなしだし」
今となっては、こんな風に穏やかに過去の話をすることもできる。
たくさん泣いて、たくさん怒って―――何度、奥歯を噛み締めたかわからない。
それでも、そうして進んできた先に今があることが、未来が続いていくことが。
「―――幸せ、だね」
どうか、この幸せがずっと続いていきますようにと。
願いを胸に、瞼を伏せた。
「キャップ…テーン…」
「…おぉ、寝てるな」
「また、気持ちよさそうに寝ちまって」
「…どうする?麦わらから通信来てるけど」
「どうせ、近くまで来てるから顔見せるって話だろ?いいんじゃねぇの」
「だな!親子の時間を邪魔するまでもねぇだろ」
「つーか、先週も来てなかったか?麦わら」
「来てたな。あいつらもこの島が拠点かよってくらいに来てるな」
「ったく…うちの姫さんは人気者だぜ」
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20.06.28