夢の不思議
「―――」
ふと、名前を呼ばれた。
沈んでいた意識が覚醒へと向かうのを自覚する。
流川の寝起きの悪さは最悪だ、とよく言われるけれど、本人にその自覚はない。
寝ぼけているのだから無理はないのだが、クラスメイトがよく憤っていた。
「ねぇ、起きて?」
優しい声だ。
薄く目を開き、寝起きに霞む視界を瞬きで整える。
くすくす、と小さな笑い声が聞こえてきた。
声のする方を見ると、予想通りの人物が、思っていた通りの表情で微笑んでいるのが見える。
「おはよう、よく寝ていたね」
寝不足?と言いながら、彼女は膝を付いていた姿勢から立ち上がった。
今は何時だろう、と考えて壁掛けの時計を見上げると、時計は昼食時を示していた。
それと同時に、キッチンから香る味噌汁の匂いにぐぅ、と腹の虫が鳴く。
「すぐに用意するから、待っていてね」
キッチンから聞こえたその声に、ソファーからはみ出していた身体を起こして伸びをする。
こわばった関節が音を立て、心なしか身体がすっきりした。
恐らく、朝の練習を終えてからソファーで転寝をしていたのだろう。
身体にかけられていた毛布を適当に畳んでソファーに置き、キッチンへと向かう。
「お昼、ありあわせで作っちゃった。買い物行かなきゃいけないんだけど」
「ん、付き合う」
「ありがと」
ありあわせ、と言いながらも、生姜香るおかずが皿に盛りつけられている。
彼女の料理のレパートリーは豊富で、手慣れた様子で進む作業は流川には魔法のように見えた。
「…手伝う」
「じゃあ、テーブル拭いてくれる?」
そう言われて、キッチンからダイニングへと足を運んでテーブルを片付ける。
そこから対面キッチンを振り向くと、冷蔵庫の方を向いている彼女の背中が目に入った。
「…そんなに髪長かったか?」
「なぁに?まだ寝ぼけてるのー?」
また、彼女がくすくすと笑った。
そう言えば、彼女の横顔は見慣れたそれよりも、少し大人びている気がする。
他の人間がどう変わろうが流川には興味のないことだが、彼女のことだけは違う。
違和感を覚えつつも、彼女が彼女であることに変わりはない。
味噌汁椀と、お茶碗をお盆で運んでくる彼女の手からそれを受け取り、ダイニングテーブルに並べる。
並べ方の決まりなんて知らないけれど、彼女は流川のすることに細かい口出しはしない。
二人で用意を進めれば、あっという間にお昼ご飯の準備が整った。
向かい合わせで座って、目の前に並ぶ何気ない料理に視線を落とす。
「―――いただきます」
二人で手を合わせて、箸を取った。
「―――流川!」
強い口調で呼ばれ、パチッと目を開く。
そこからパチパチと瞬きをすると、見上げた先に見慣れた天井が見えた。
その脇から、紅が視界へと入り込んでくる。
「ご飯できたよ。食べられる?」
寝起きすぐだという配慮なのだろうか。
問いかける彼女に小さく頷き、身体を起こす。
「…さっき食ってなかったか?」
「え!?寝ながら食べてたの?」
驚いた表情を見せる紅は、先ほどの彼女と違って、見慣れた彼女だ。
あれ?と首を傾げる流川と、不思議そうに首を傾げる紅。
やがて、何かに納得したらしい彼女が、クスリと笑った。
「夢でも見てた?」
今がお昼時だよ、そう言って、彼女が壁掛け時計を指さす。
そして、準備のためにとキッチンに向かった。
肩を少し越えたあたりの髪がふわりと揺れる。
そうか、夢だったのか。
少し大人びた彼女の様子から察するに、少し先の未来を夢に見たのだろうか。
ここではないどこかの部屋で、少しだけ見慣れない彼女がいて。
そう言えば、料理をしていた彼女の左手には―――
「すぐに用意しちゃうね」
後ろに立った流川に気付いたのか、振り向きもせずに彼女はそう言った。
味噌汁の鍋をくるりとお玉で回し、火を止める。
そのまま食器棚へと向かおうとした彼女の進路を塞ぐ。
不思議そうに首を傾げた彼女を、ギュッと抱きしめた。
「る、流川!?どうしたの…」
慌てた様子の彼女の声は上ずっていて、照れているのだろうか、と頭の片隅で考えた。
何を言っても無言で、それも結構な力で抱きしめてくる彼に、体温が上昇したように感じる。
寧ろ、全身の熱が顔に集まっているような気がした。
「(一体何があったの!?どんな夢を見たんだろう…)」
出来れば、心臓が壊れてしまう前に解放してほしい。
「…生姜焼き」
「は、はい?」
「生姜焼き食いてー」
「………生姜焼き」
それとこれにどのような関係性があるのだろうか。
相変わらず、よくわからない人だなぁと考えられるあたり、少しだけ心臓が落ち着いてきたのかもしれない。
それから、彼の腕の中からコンロの上のフライパンをちらりと見る。
ちょんちょん、と彼の服の裾を引っ張ってみた。
「今日のお昼」
見て、と指さした先に視線を向けた彼は、少しだけ驚いたようだった。
一体どんな夢を見たのかは知らないけれど、お腹でも空いていたのだろうか。
クスリと笑ってから、彼の胸元を押した。
「匂いがしていたから夢に出てきたんじゃない?ほら、用意するから手伝って」
そう言って、ようやく解放してくれた彼に濡れ布巾を押し付ける。
大人しくテーブルに向かう彼の背中を見送り、頬の熱を冷ますように手うちわでパタパタと仰ぐ。
全く、急なスキンシップは心臓に悪すぎる。
深呼吸を一つしてから、彼の空腹を満たすべく、用意を再開した。
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18.04.07