心の隙間をゼロにして、
一口に忙しいと言っても、メールを打つ時間も取れないほどになる事は、まずない。
それが出来なくなるのは決まって、忙しさの所為で感情や精神部分に余裕がなくなるからだ。
いつからだろう―――こんな、要件だけのメールを送る様になってしまったのは。
いつからだろう―――翼と、必要最低限の会話しかしなくなったのは。
それに気付いた時、このひと月ほどの間に感じていた忙しさや慌ただしさが、全部消えた。
頭の中から、すっぽりと。
同時に、これはおかしいと思った。
今までその違和感に気付かなかった事自体が不思議なほどに…翼との、コミュニケーションがない。
思い出した翼の横顔はどこか疲れていて―――いつから、あんな表情をしていたのかもわからない。
三ヶ月前の自分にはありえなかった事が、目の前で起こっていた。
「どうしよう…」
忙しい、なんて、ただの言い訳だ。
朝や夜、ほんの少しの時間でも、関わろうと思えばできたはず。
それなのに、しなければいけない事だけを事務的にこなして、頭はいつも仕事の事ばかりだった。
何のために、異国の地で頑張ろうと決めたのか。
これでは、何をしているのかわからない。
「どうしよう…私、酷い事を…」
気付いてしまえば、仕事なんて手につかなくなってしまった。
どうしよう、と呟いたって、過ぎた時間を取り戻す事なんて出来ない。
「紅、どうかした?」
隣の先輩にあたる女性が心配そうに声をかけてくる。
呟いた言葉は日本語だったけれど、兄の会社なので日本語が出来る人も少なくはない。
彼女は、紅の呟きを正しく理解し、その蒼褪めた表情を案じてくれている。
「少し休憩しましょう?この所、忙しくしていたから…」
混乱、それが一番正しいのかもしれない。
その渦中にある紅を促し、休憩室へと向かう。
「私…翼に酷い事をしてしまってるんです。忙しいからって、“頑張って”の一言も言ってない…」
何時に帰るだとか、朝は何時になるだとか。
必要な会話しか、思い浮かばなかった。
コーヒーの入った紙コップを両手で包み込み、紅は意気消沈した様子で話す。
先輩の彼女、マリベルは彼女の話を黙って聞き、それが終わると、安心させるようにその手を握った。
「紅、あなたはよく頑張っているわ。でも、そろそろ少し休んだ方が良いわね」
「でも…仕事が…」
「あなたがすべき事は、一日も早く仕事に慣れる事よ。でも、仕事に潰されてほしいわけじゃないの」
今までは学生をしていた人間が社会に出ると、よくよく起こる事なのだ。
仕事を最優先にしてしまって、結果として自分自身を追い詰めて…身体を壊してしまう。
既に社会人経験の長いマリベルは、そんな若者を何人も見てきた。
「今日はもう帰りなさい。ついでに、明日は有休を取るといいわ。
そうしたら、三連休になるから…ゆっくり休めるでしょう?先週は休日出勤だったからね」
「マリベルさん…良いんでしょうか」
「休んだ後、しっかり頑張れるならいいのよ!有休は社会人の特権よ」
少し休んできなさいね、と言われてマリベルが先にデスクに戻った。
後を追うようにデスクに戻り、言われた通りに上司に申告する。
「例年になく忙しくて、無理をさせてすまなかったな。リフレッシュして来いよ」
直前の申請になったにも関わらず、快くそれを受けてくれた上司に頭を下げ、荷物をまとめて会社を出る。
夕暮れどころか、まだ日が傾き始めたばかりの昼間。
こんな時間に外を歩いているのは本当に久し振りだ。
身体は疲れているけれど、不思議と気分は落ち着いている。
「…買い物でもしていこうかな」
三日前のメニューすら、とりあえずと言う感じだったから、よく思い出せない。
今日は腕に縒りをかけて頑張ろうと決め、通勤バッグを肩にかけて帰路へと着いた。
いつもよりも遥かに豪勢な夕食の準備を整え、よし、と頷く。
ヘアバンドを外すと、シャワーの名残でまだ少し冷たい髪が頬にかかった。
今の時刻はまだ5時を少し回ったところ。
翼が帰るまではまだ少し時間があるかな、と時計を見上げる。
時間も余っているし、デザートでも作ろうかな、と泡だて器を手にしたところで、玄関から音がした。
鍵を開ける音がして、エプロンをそのままに玄関へと向かう。
まだ帰る時間ではない―――けれど、確信があった。
鍵の開け方一つに見えるその癖が、誰かを教えてくれるのだ。
紅が玄関に続く廊下に出るのと、翼が玄関に入ったのは、ほぼ同時だった。
ただ、お互いに驚いたように見つめ合う二人。
「ごめん!」「ごめんなさい!」
二人の声が重なる。
「余裕なくてごめん。気付かなくてごめん」
「ううん、私も…本当に、余裕がなくて…ごめんなさい」
当たり前の事に気付かなかった。
こんな風にすれ違った生活を送っていたら、自分たちの関係はどうなってしまうんだろう。
その事に気付いてしまったら、とても怖くなった。
暴露大会みたいに、包み隠さず、そして空白を埋めるように…私が、俺がと繰り返して数分。
自然と言葉が途切れ、視線が絡み合う。
「…どうしよう。今、すっごく翼に抱き付きたい」
「…同感だけど、駄目。練習の途中でそのまま帰って来たから。風呂は?」
「準備できてるよ。入ってきて?」
「うん、そうする。ありがとう。…あと、これ」
大きなスポーツバッグの反対側の手に持っていた箱を紅に差し出す。
受け取ったそれに貼られたシールには、練習場近くの有名なケーキ屋さんのネームが入っていた。
「デザートを買って来たんだけど…作った後?」
紅の手元を見て、もしかして、と苦笑する。
その視線を受けて初めて、自分が泡だて器を持ったままだと気付いた紅。
「まだ大丈夫!作ろうと思ったところだから」
「そう?じゃあ、ギリギリだね。中身は要冷蔵だから」
「うん、わかった。冷蔵庫に移して冷やしとく」
受け取ったそれを手に、キッチンへと戻ろうとする。
そんな彼女を呼びとめる翼の声が聞こえた。
何?と振り向くと、目の前に彼の顔があって。
至近距離で絡んだ視線が、困ったように笑った。
「ごめん。でもこれだけ。それから…ただいま」
「…謝らなくていい。………お帰り、翼」
そうして、今度こそお互いが進むべき場所へと足を向ける。
一旦、ケーキの箱をシンクの上に置き、ぼんやりと自分の唇に触れる。
あれだけの短い触れあい、何気ない会話。
それだけで、こんなにも満たされている。
今まで、どうして大丈夫だったんだろう―――それが不思議に思えるほどに、心が満たされていた。
「…よし。今のうちに、仕上げておかないとね」
翼がお風呂を出たら、抱きしめてもらって、抱きしめて。
心の隙間をゼロにしたら、二人で夕食とデザートを楽しもう。
そうして、出来れば明日は休んでほしいと頼んで…無理なら、練習を観に行ってもいいかもしれない。
土日はどうしようか―――そうしてこれからの事を考えると、とても幸せな気分になれた。
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11.11.12